トーゴ(読み)とーご(その他表記)Togo

翻訳|Togo

精選版 日本国語大辞典 「トーゴ」の意味・読み・例文・類語

トーゴ

  1. ( Togo ) アフリカ大陸の西部、ギニア湾の北岸にある共和国。一九六〇年フランスから独立。農業が主で、燐鉱石を産出する。首都ロメ。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「トーゴ」の意味・わかりやすい解説

トーゴ
とーご
Togo

西アフリカ東部、ギニア湾に面する国。正称はトーゴ共和国République du Togo。東はベナン、西はガーナ、北はブルキナ・ファソと国境を接する。面積5万6785平方キロメートル、人口270万0982(1981センサス)、619万1155(2010センサス)。首都はロメ。

[大林 稔]

自然

国土は南北560キロメートルの細長い短冊状で、南端を東西に走る海岸線は70キロメートルにすぎない。海岸線は砂州で、その背後は湿地となり潟湖(せきこ)が発達している。最大の潟湖はトーゴ湖で、国名はこれに由来する。南部の内陸部は高さ90メートル程度の台地が続く。中部は南南西から北北東にかけて国土を斜めに二分する高さ100~500メートルの丘陵性のトーゴ山地である(北部からベナンにかけてはアタコラ山地とよばれる)。トーゴ山地は最西部がもっとも高く、東に向かって低くなる。北部はトーゴ山地とブルキナ・ファソ国境付近の群山とに挟まれた平原で、ボルタ川支流オティ川の流域である。トーゴ山地を境に南は熱帯雨林で沿岸部にはマングローブが密生する。山地の北はサハラ砂漠から吹く北北東の乾燥した熱風、ハルマッタンの影響の強いサバナ地域である。

 降水量はトーゴ山地がもっとも多く年約1500ミリメートルで、南に向かうにしたがって少なくなる。沿岸部のロメでは778.3ミリメートルとギニア湾岸には珍しく降水量が少ない。北部は沿岸部より多く約1100ミリメートルの年降水量がある。季節は乾期と雨期があるが、南部では5~6月の雨期のほかに10月にも小雨期がある。12~1月にはハルマッタンが吹く。

[大林 稔]

歴史

現在のトーゴの版図には西のアシャンティ王国や東のダオメー王国のような強力な国家はかつて存在しなかった。15世紀末に来航したポルトガル人は16世紀に宣教師を送り込み、奴隷貿易も早くから行われたが、北部への奴隷貿易の影響は比較的小さかった。本格的商業活動がギニア湾岸のアネショを拠点に始められたのは1800年になってからであった。

 19世紀に入り植民地分割が激化しても、良港のないこの地にイギリスやフランスは大きな関心を払わず、後発帝国主義国のドイツが進出した。1884年、ドイツから派遣されたグスタフ・ナハティガルGustav Nachtigal(1834―1885)が沿岸の首長たちと保護条約を結び、1885年ベルリン会議でドイツのトーゴにおける支配権が承認された。1879年イギリス領ゴールド・コースト(黄金海岸)との西部国境が、1897年フランス領ダオメーとの東部国境がそれぞれ確定された。ドイツは領内の支配を安定させるために、現地住民、とくに北部のコンコンバ人、カブレ人を平定した。ドイツ領時代は短期間だったが、地下資源開発、カカオ、綿花、チークの導入、首都ロメの建設と港湾整備、鉄道建設などがアフリカ人の酷使を伴って急速に進められた。第一次世界大戦中、トーゴはイギリス・フランス軍の手に落ち、1922年、東部はフランス、西部はイギリスの委任統治領となり、第二次世界大戦後の1946年、国連の信託統治領に変わった。フランス領トーゴは1956年8月30日フランス連合内の自治共和国となり、1960年4月27日トーゴ共和国として独立した。他方、イギリス領トーゴは、1957年ゴールド・コーストがガーナとして独立したとき、その一部となった。

[大林 稔]

政治

1946年以降発展したエウェ人の統一運動の代表であるオリンピオは1958年4月に自治政府首相となり、1961年4月には初代大統領に選出された。しかし南部出身のオリンピオ政権はしだいに専制化したため、植民地時代からの地域格差に苦しむ北部を中心に不満が高まった。1963年1月、エヤデマGnassingbé Eyadéma(1937―2005)軍曹らのクーデターでオリンピオは暗殺された。エヤデマは1967年1月再度クーデターで軍政に復帰。1969年11月、単一政党トーゴ人民連合(RPT)を設立して自ら議長となり、民政移管を果たした。

 エヤデマは権力の集中と個人崇拝を強める一方、1974年以降燐(りん)鉱山の国有化、人名・地名のアフリカ化など民族主義キャンペーンを繰り広げた。エヤデマが約束した新憲法制定は長い間実現せず、他方オリンピオ派の陰謀とされる事件の摘発が繰り返された。1979年12月、エヤデマの独裁を追認する新憲法が制定され、大統領に選出されたエヤデマは「第三共和国」を宣言した。

 1980年代後半にはさまざまな「陰謀」の摘発と逮捕・弾圧が頻発し、エヤデマ政権は国際人権機関から批判を受けた。また「陰謀」はしばしば外国の介入と結び付けられたため、近隣諸国との関係は悪化した。

 1990年以後、内外からの民主化の圧力を受け、1991年4月大統領エヤデマは複数政党制の導入を公約した。同年7月には隣国ベナンにならって国民会議が開催された。国民会議は民主主義への移行期における最高決定機構として共和国高等評議会(HCR)を設立し、暫定首相にジョセフ・コフィゴーJoseph Kokou Koffigoh(1948― )を任命して総選挙の準備を命じた。HCRは憲法の停止と大統領権力の暫定首相への移行、RPTの解散を決議したが、大統領・軍部はこれを認めず、二重権力状態が生じた。

 1991年を通じて軍部はエヤデマの復権のため、放送局の占拠、反対派の暗殺・脅迫、首相コフィゴーの拘束など暴力による圧力を行使し続けた。これに対し野党支持勢力はストライキやデモで反撃したが、民主化はしだいに後退した。軍の暴力を恐れて、ガーナ、ベナンに逃れた難民は20万人から35万人に上るといわれた。

 1993年3月と1994年1月にエヤデマが居住する軍事基地が攻撃される事件が起こった。トーゴ政府は、この事件が野党とガーナ政府によって引き起こされたものと非難したため、ガーナとの間に一時緊張が高まった。

 大統領選挙は何度か延期されたが、1993年8月に主要野党候補のボイコットと国際オブザーバーの批判を受けながらも実施され、エヤデマが勝利した。エヤデマは軍の圧力を背景に、1996年には独裁権力をほぼ回復した。しかし1992年9月に、何度かの延期のあと、新憲法が国民投票で承認されていたため、形式的には複数政党制が樹立された。また1994年2月に幾度かの延期のあと行われた議会選挙では、野党が僅差(きんさ)で多数派を獲得した。その後難民はガーナ、ベナンから帰還したが、野党有力指導部は軍部の圧力のため、国外亡命を余儀なくされた。1998年6月の大統領選挙ではエヤデマが4選した。しかしこの選挙でも不正があったとして野党を中心に抗議行動が繰り広げられ、ヨーロッパ諸国からも非難の声があがった。2003年5選。2005年2月5日にエヤデマが心臓発作で死去した後、軍部はエヤデマの息子のフォーレ・ニャシンベFaure Essozimna Gnassingbé(1966― )に権力移譲した旨を発表したが、憲法上では大統領死去後は国会議長が暫定大統領を務める決まりであり、国会議長でないニャシンベが務めることは認められていない。同6日、トーゴ議会は憲法改正を行いニャシンベの世襲を合法化した。しかし、トーゴも加盟している西アフリカ諸国経済共同体ECOWAS)やアフリカ連合(AU)などは、これを軍部によるクーデターであると非難し、トーゴへの制裁措置発動を宣言した。同25日、こうした国際社会の圧力に屈しニャシンベは大統領を辞任。暫定大統領にRPTのアッバス・ボンフォAbbas Bonfoh(1948―2021)が就任した。同年4月大統領選挙を実施。ニャシンベと野党6党の統一候補であるボブ・アキタニEmmanuel Bob Akitani(1930―2011)の一騎打ちとなった。ニャシンベの当選が発表された後、選挙の不正を訴える野党支持者らによる暴動が起きるなど情勢が不安定となったが、ECOWASはニャシンベの当選を承認。5月にニャシンベが正式に大統領に就任した。

 トーゴはECOWAS、AUのほか、西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA、フラン圏)、アフリカ開発銀行(AfDB)などに所属している。

[大林 稔]

経済

トーゴは低所得国に分類され、1人当り国内総生産(GDP)は362ドル(2003)である。1人当りGDP成長率は1975~2003年はマイナス0.8%、1990~2003年はプラス0.4%であった。1970年代前半まで経済は民間主導で順調に推移した。1970年代後半には輸出産品価格の高騰に刺激されて公的支出がGDPの46%(1978)までに膨張した。その後一次産品価格が低下したため、財政と国際収支の危機および債務支払いの困難に陥った。政府は1980年前半から構造調整プログラムを実施し、緊縮財政と経済自由化によって危機からの脱出を図った。しかし交易条件の悪化、政府支出の増加などから経済の復調は遅れた。さらに1990年代には政府の混乱から財政は破綻し、債務不払いの状態に陥った。1994年のフラン圏の通貨切下げにより、ようやく1人当り所得の増加率がプラスに転じ、経済回復が期待されたが、1998年の電力不足によるエネルギー危機や、同年6月の大統領選挙以降の国内情勢の不安定化に伴い、経済はふたたび停滞している。

 農業は労働人口の70%に雇用を提供し、GDPの39.5%を占めている。農業生産の中心は自給農業である。キャッサバ(72万5000トン)、ヤムイモ(57万トン)、トウモロコシ(48万5000トン)、実綿(みわた)(18万5000トン)、ソルガム(モロコシ。18万トン)などを産し(2005)、食糧を自給している。農業部門の最大の商品は綿花、ついでコーヒーとココアであり、これらの商品作物は輸出の約20%以上を占めている。残りのGDPのうち20.4%が第二次産業(燐鉱業と零細工業)である。トーゴは上質燐鉱石では世界最大級の埋蔵量を有しており、また燐鉱石は輸出の約50%を占めている。石灰石、大理石も産出しているほか、鉄鉱石、マンガン、クロームなどの埋蔵が知られており、石油とウラニウムの開発も進められている。サービス産業はGDPの40.1%を占めており、なかでも首都ロメは周辺の内陸国の中継貿易港として重要な役割を果たしている(2003)。

[大林 稔]

社会

主要民族はいずれも近隣諸国にまたがって居住している。人口集中地帯である南部の主要民族はエウェで、ほかにカビエ、ヨルバ、フォンなどが住む。エウェは類縁の集団を加えると全人口の約45%を占める。中部にはアクポソ、アデレ、バサリ、コンコンバ、カブレなどが居住する。伝統的に南部では農耕、北部では牧畜と農耕が行われている。人口の38%が伝統宗教、35%がキリスト教、19%がイスラム教である(2001)。

 トーゴの社会指標はサハラ以南アフリカのほぼ平均的水準にあり、成人識字率は53.0%、出生時平均余命は54.3年、都市化率は35.2%である(2003)。1975~2003年の人口増加率は3.1%で、2003年の人口の割合は15歳以下が43.9%、65歳以上が2.5%となっている。トーゴは植民地時代には教師、事務職などを周辺地域に供給した。現在でも初等教育の普及度はサハラ以南アフリカでは高い。公用語はフランス語である。

[大林 稔]

『『開発途上国国別経済協力シリーズ アフリカ編25 トーゴー』第2版(1999・国際協力推進協会)』


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改訂新版 世界大百科事典 「トーゴ」の意味・わかりやすい解説

トーゴ
Togo

基本情報
正式名称=トーゴ共和国République Togolaise 
面積=5万6785km2 
人口(2009)=660万人 
首都=ロメLomé(日本との時差=-9時間) 
主要言語=フランス語,エウェ語,カブレ語 
通貨=CFAフランFranc de la Communauté Financière Africaine

西アフリカ,ギニア湾に面した共和国で,国土の西はガーナ,北はブルキナファソ,東はベニンの各国と国境を接する。小国であるが,過去における植民地支配の複雑な歴史をもっている。

国土は南北に細長く約550kmのびた長方形をしており,ギニア湾に面した海岸線はわずか70kmにすぎない。海岸部は沿岸州の発達した低地である。内陸部は丘陵性のトーゴ山地によって占められるが,その平均標高は500~600mで,最高点でも1000m程度である。気候は南の熱帯雨林型から北部のサバンナ型へと変化し,北へ向かうほど乾燥する。12~1月はサハラ砂漠から吹き寄せる乾燥した熱風ハルマッタンの影響で,極度に乾燥する。降水量は中部のトーゴ山地で年間1500mmに達するところもある。こうした気候的特色に対応して,この国の植生は,南部から北部にかけて熱帯雨林からサバンナ林へと変化する。水系はトーゴ山地で二分される。山地の北西側はガーナを流れるボルタ川の支流オーティ川の流域をなす。南東側はトーゴ山地から流れ出るモノ川やハホ川の流域に属する。
執筆者:

北部のサバンナと南部の熱帯雨林という自然の区分と同じように,住民の構成も文化的にも言語系統の点でもはっきりと二分される。南部を代表するのはクワ語群に属するエウェ語を話すエウェ族Eweで,ガーナ南部やベニン南部にもまたがって居住している。トウモロコシ,ヤムイモ,アブラヤシ,キャッサバを栽培する農耕民で,最近ではイネやカカオも導入している。歴史的にはヨーロッパ植民地勢力の行う奴隷交易の仲介者の役割を果たし,黄金海岸のエルミナや奴隷海岸のウィダーの港市に奴隷を送っていた。しかし,エウェ社会はリネージ組織が発達し,中央集権的な政治的組織を形成しなかった。中央部の町ソコデより北は,ボルタ語群に含まれる言語を話すカブレ,モバ,ランバ・クロントポンマなどの部族が居住している。その代表的なカブレ族Kabreは丘陵地をテラス耕作し,高度な集約農業を行い,ミレット,イネ,ヤムイモなどの作物を栽培している。

 小国であるにもかかわらず南北の対立は根深く,エヤデマGnassingbe Eyadéma(1935-2005)大統領が北部の部族出身のため,南部の有力部族であるエウェの反感が強く,政情は不安定である。奴隷交易の衰退期にブラジルから帰還した混血は海岸部にアネショの町を建設し,北部との奴隷や牛の取引に従事した。彼らの子孫はミナと呼ばれるが,商業的実権を握り,トーゴの経済を支配すると同時に,政界にも隠然とした勢力をもっている。

 人口密度が約65人/km2で,アフリカ諸国のあいだでも高く,とくに北部からの農業労働者がガーナに年間20万~30万人も出稼ぎに行っている。フランス語が公用語であるが,南部ではエウェ語,北部ではカブレ語が有力である。宗教は部族固有の伝統的信仰が存在するとともに,南部ではキリスト教徒,北部ではイスラム教徒が多い。
執筆者:

ヨーロッパ人の来航以前のこの地域の歴史は,まだよくわかっていない。15世紀末にポルトガル人が到来し,16世紀には宣教師が活動を始めた。19世紀に入ると,ギニア湾に臨むアネショを基地として奴隷貿易が本格化したが,この地域には西のアシャンティ王国,東のダホメー王国のような有力な政治組織は存在せず,ヨーロッパ列強の積極的な進出もなかった。しかしヨーロッパ列強の西アフリカ分割戦が激しくなるにおよんで,ドイツがこの地域に進出してきた。1847年に宣教師を送り込んだドイツは,84年にはグスタフ・ナハティガルを派遣し,沿岸部の多くの首長と保護条約を結ばせた。ドイツのこの地域への支配権は85年のベルリン会議で承認され,97年のパリ条約でフランス領ダホメー(現,ベニン人民共和国)との,99年のサムア条約でイギリス領ゴールド・コースト(現,ガーナ共和国)との境界がそれぞれ確定された。こうしてドイツ領トーゴランドTogolandが成立したが,97-98年の北部の反乱など,現地住民は激しく抵抗した。ドイツは主都に定めたロメの都市・港湾建設,カカオなど換金作物の導入,鉄道・道路建設など急テンポで経済開発を行い,トーゴランドはドイツのモデル植民地となったが,北部はこの開発からとり残された。

 1914年第1次大戦が始まると,ドイツ植民地軍は西と東から進撃してきた英仏両軍に無条件降伏した。戦後の22年ドイツ領トーゴランドの約2/3を占める東部はフランスの,残り1/3を占める西部はイギリスの統治する国際連盟の委任統治領となった。その後,おおむねフランス領は単独の行政地域として,イギリス領はゴールド・コーストの一部として統治された。46年に両地域が国際連合の信託統治領となると,東西に引き裂かれたエウェ族の統一運動など,政治運動が活発化した。56年5月のイギリス領における住民投票では,エウェ族の反対にもかかわらずゴールド・コーストとの合体派が勝利をおさめ,イギリス領地域は翌57年に独立したガーナの一部となった。他方,フランス領では1956年8月に自治政府が成立し,60年4月27日,トーゴ共和国として独立した。

独立前後のトーゴの政治の中心は,エウェ族統一運動を代表するオリンピオSylvanus Olympioのトーゴ統一委員会(CUT)とグルニツキーNicolas Grunitzkyのトーゴ進歩党(PTP)であった。1956年にグルニツキーが最初の自治政府首相となったが,58年4月の国連管理下の選挙ではCUTが勝利をおさめ,オリンピオを首相として60年4月の独立を迎えた。61年オリンピオは大統領制を定め,みずから就任した。しかし南部出身のオリンピオ政権に対する北部住民の不満や,カカオ農園主などの政策上の反発を背景に,63年1月クーデタが起こり,オリンピオは殺害された。パリに亡命中だったグルニツキーが呼び戻され大統領となったが,政情は安定しなかった。67年1月再びクーデタが起こり,エヤデマ中佐が憲法を停止し,国会を解散して権力を握った。エヤデマは新憲法制定を約束したものの実行せず,69年には単一政党トーゴ人民連合(RPT)を設立し,一党政治へ移行した。72年の国民投票で大統領として信任されると新憲法制定の公約を撤回し,76年には政治局員,閣僚を大統領の任命制にするなど権力の集中化を進めた。79年12月エヤデマ体制を明文化した新憲法がようやく制定され,一院制の国会も発足した。

 しかし,RPTの一党支配に反対する民主化要求が高まりを見せ,91年4月,トーゴ民主連合(UTD)など9政党が合法化された。93年8月に実施された複数政党制下初の大統領選ではエヤデマが4選された。

 外交的には対仏友好関係を基礎に親西欧路線をとっている。隣国ガーナとは,反政府勢力支援などをめぐり長年緊張関係が続いていたが,1995年7月にガーナのローリングス大統領がロメを訪問し,14年ぶりに関係を正常化した。

1995年の1人当りGNPは310米ドルで,サハラ以南アフリカの平均(490米ドル)を下回った。トーゴ経済は伝統的に農業,サービス,リン鉱石と綿花の輸出を柱としている。GDPの構成(1995)は,アフリカの中でも特に農業のシェアが大きく,農業38%,工業21%(うち製造業9%),サービス41%となっている。農業はまた労働力の66%を雇用している。トーゴは食糧を自給しているが,南北の農業生産性には大きな地域格差がある。食糧としてはヤムイモ,キャッサバ,モロコシ,ミレット,換金作物としては綿花,コーヒー,ココアが主要農産物である。農産物は独立直後には輸出の89%を占めていたが,近年は50%以下に低下し,代わって独立時に3%にすぎなかった鉱産物が50%前後まで増加した。鉱産物輸出のほとんどは1961年より輸出が開始されたリン鉱石で,トーゴは西アフリカ最大のリン鉱石産出国となっている。ほかに石灰,岩塩などの鉱山がある。製造業は未発達である。ビール,食料品加工,繊維,履物,建築資材,化学,精油,金属などの小規模な工場がある。立地を生かした内陸国への中継貿易は,トーゴの主要産業の一つである。おもな輸送インフラストラクチャーとして全長約600kmの鉄道と約8000kmの道路(1500km舗装)があり,いずれも貿易港のロメを中心にのびている。

 国内総生産は1960年代に年平均増加率8.5%と高い成長をみせたが,70年代には年3.6%に低下した。83年以後は安定化と構造調整に取り組んだものの,80年代の成長率は年平均1.8%にとどまった。1991年以後,政治が混乱し,経済に悪影響を及ぼした。貿易面では,EC諸国,とくにフランスへの依存度が高い。フラン圏に属し,西アフリカ経済通貨同盟(UEMOA),西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)に参加している。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「トーゴ」の意味・わかりやすい解説

トーゴ

◎正式名称−トーゴ共和国Republic of Togo。◎面積−5万6600km2。◎人口−619万人(2010)。◎首都−ロメ(84万人,2010)。◎住民−南部ではエウェ人,北部ではカブレ人,モバ人などが有力。◎宗教−土着宗教,キリスト教(南部),イスラム(北部)。◎言語−フランス語(公用語),エウェ語(南部),カブレ語(北部)など。◎通貨−CFA(アフリカ金融共同体)フラン。◎元首−大統領,ニャシンベFaure Gnassinbe(2005年4月選出,2010年3月再任,任期5年)。◎首相−セロム・コミ・クラスSelom Komi KLASSOU。◎憲法−1992年9月国民投票で承認。◎国会−一院制(定員81,任期5年)。最近の選挙は2013年7月。◎GDP−28億ドル(2008)。◎1人当りGNP−350ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−62%(1997)。◎平均寿命−男55.6歳,女57.4歳(2013)。◎乳児死亡率−66‰(2010)。◎識字率−65%(2008)。    *    *西アフリカ,ギニア湾岸の共和国。西はガーナ,東はベナンと接し,国土は南北に細長い。南部の海岸平野は熱帯雨林地帯に属し多湿。海岸線に沿って潟湖がある。中央部は標高1000mに達する山地。北部はサバンナ地帯。農業が主で,海岸平野部のコプラ,綿花,ヤシ油,コーヒー,内陸山地のカカオが主産物。北部で牧畜が行われる。リン鉱石の産があるが,鉄,ボーキサイトなどの資源は未開発。 15世紀にポルトガル人が到来したが,その後ヨーロッパによる積極的な進出はなかった。1884年になってドイツがこの地を保護領とし,第1次大戦後,東部がフランスの,西部が英国の,それぞれ国際連盟委任統治領(第2次大戦後は国連信託統治領)となった。英国領地域は隣のゴールド・コーストと合体して1957年にガーナとして独立し,フランス領地域は1960年にトーゴとして独立した。1967年のクーデタで政権の座についたエヤデマは2003年大統領に5選されたが,南部からガーナにまたがって住むエウェ人が北部出身者を中心とするエヤデマ政権と対立し,政治問題の因となっていた。2005年2月,38年間在任したエヤデマ大統領が死去し,同年4月の大統領選挙でエヤデマの息子のニャシンベが選出された。
→関連項目エヤデマトーゴランド

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「トーゴ」の意味・わかりやすい解説

トーゴ
Togo

正式名称 トーゴ共和国 République du Togo。
面積 5万6600km2
人口 807万2000(2021推計)。
首都 ロメ

アフリカ大陸西部の国。西はガーナ,北はブルキナファソ,東はベナンと国境を接し,南はギニア湾支湾のベナン湾に臨む。国土は南北に細長く,西部のトーゴ山脈のほかは平地で,南部は熱帯雨林,ほかは森林を含むサバナで,乾季にはサハラ砂漠からの熱風ハルマッタンが吹く。年平均気温は 26~28℃。最高気温は 38℃ほどに達し,最低は約 20℃。降水量はトーゴ山脈に多い。強力な古王国もなく,現ガーナと現ベナンの植民地軍勢力に挟まれた曖昧な地域であったが,1840年代にドイツ人が進出,1865年アネショに貿易基地を建設,植民地化をはかり,1885年ドイツ領トーゴランドとした。第1次世界大戦後は,西部をイギリス,東部をフランスが支配,1922年それぞれが国際連盟の信託統治領となり,1956年イギリス支配地域はイギリス領ゴールドコースト (現ガーナ) に編入された。フランス支配地域は 1956年に自治権を獲得,1960年トーゴ共和国として独立した。農牧業を主とし,カカオ,コーヒーをはじめ,パーム油,パーム核,ナンキンマメ,綿花などを輸出。ほかに自給用としてトウモロコシ,キャッサバ,ヤムイモなどを産し,ウシ,ヒツジ,ヤギを主とする牧畜が行なわれる。南部に世界有数のリン鉱石の鉱脈があり,1961年からフランス資本との合弁で開発,1974年鉱山を国有化,主要輸出品の一つとなっている。ほかに石灰石を産し,西アフリカ最大のセメント工場や繊維工業がある。住民は多様で,南部はエウェ族,ミナ族,中部はアデレ族,アクポソ族,北部はテム=カブレ族など。約 50%が部族固有の伝統宗教をもち,ほかはイスラム教とキリスト教。公用語はフランス語。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「トーゴ」の解説

トーゴ
Togolaise

西アフリカ,ギニア湾に面する共和国。1884年,ドイツ保護領。第一次世界大戦でのドイツの敗戦により東部がフランス領,西部はイギリス領となり,そのフランス領が現トーゴとして1960年に独立。エヤデマ大統領の長期政権が続いている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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