アシャンティ王国 (アシャンティおうこく)
Ashanti
17世紀末から20世紀初頭までガーナの森林地帯を支配した,アシャンティ族による連合王国。アシャンティ族は17世紀後半までは弱小国家群に分かれ,西のドマや南のデンキーラといった,より強大な国家に貢納していた。17世紀末,その弱小国家の一つであるクマシ(現在の都市クマシの付近にあった)の王にオセイ・トゥトゥが即位した。彼はデンキーラと強国アクワムの宮廷で軍事・財政の技術を学び,即位に際して,アクワムから祭司長アコムフォ・アノキーと軍事指導者を招き,銃や弾薬ももらった。そして弱小国家群を糾合して連合王国をつくり,まずドマを破った。次いでデンキーラを破って(1701)すべての国からの支配を脱し,独立を獲得した。18世紀初頭にオセイ・トゥトゥは死んだが,王国の版図は拡大し,18世紀半ばにはアクワムを併合していたアキムを破り,また北ではゴンジャとダゴンバを破って貢納国とし,18世紀末までには黄金海岸西方の森林地帯の大半を支配するにいたった。そして海岸に奴隷と黄金を送って銃を受け取る貿易を支配し,繁栄した。19世紀に入ると,海岸部も支配して,ヨーロッパとの貿易の利益を独占しようとし,ファンティ諸国を攻撃し始めた。ここに王国は初めてヨーロッパ勢力(イギリス)と直接接触することとなった。王国はなんとか海岸部にその勢力を及ぼそうとし,イギリスと政治・軍事両面で対峙したが抗しきれず,1874年に首都クマシが占領された。王国の評議会は,イギリス軍との戦いを主張するプレムペーを王とし,なお抗戦の姿勢をみせたが,1902年ついにイギリスの植民地となった。
アシャンティ連合王国がつくられたきっかけは,周辺諸国に対する共同防衛であったが,統一の強さはイデオロギーと制度によって推進された。すなわち,祖霊崇拝とそれに基づく王制である。オセイ・トゥトゥは,周辺の小国家を支配してゆくと同時にそれを支配する王の象徴として〈黄金の床几(しようぎ)〉をつくった。そしてそこにはアシャンティの諸国民の祖霊が宿るとされ,したがって連合王国の王はその祖霊の力を身体に宿すことによって王たる地位を保ち,支配することができるものとされた。これ以後,この床几に座る王はアサンテヘネ(〈アシャンティ連合王国の王〉の意)と呼ばれるようになった。この〈黄金の床几〉は今日に至るまでアシャンティの人々の統合の強い象徴となってきた。それは1900年イギリスのホジソン総督がこの床几を要求した時に起こした反乱においても示され,またガーナ独立の際に,エンクルマの統一国家構想に対して,アシャンティに自治を認めさせる連邦制を主張したことにもあらわれている。
執筆者:井上 兼行
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アシャンティ王国
あしゃんてぃおうこく
現在のガーナの南西部に、18~19世紀にかけて繁栄した王国。18世紀初頭から、海岸部のイギリス、オランダの商人に奴隷を供給し、その代償として武器、火薬を受け取り、近隣諸地域を征服した。オポク・ワレ王(在位1720~1750ころ)のときにその領域はもっとも拡大し、その後中央集権的国家を確立した。アシャンティ王の象徴である金の床几(しょうぎ)(黄金の椅子(いす))がアシャンティ王国統一のため重要な役割を果たした。1807年オセイ・ボンスー王は南部のファンティ人地域を攻撃し、この地域に城塞(じょうさい)(フォート)をもっていたイギリス人と対立した。1824年アシャンティ軍はイギリス軍を破り、1831年に両国は和解した。さらに1863年海岸地帯への進出を図り、ふたたびイギリスと衝突した。イギリス軍はアシャンティが主権を主張するエルミナを1869年に占領し、1874年には本拠地クマシを攻撃して勝利を得た。その結果、コフィ・カリカリ王は退位させられ、メンサー・ボンスーが王位に就任したが、イギリス植民地政府や北部の離反的な首長によって王の権限は抑制された。1902年、当時の王プレンペ1世はシエラレオネに追放され、アシャンティはイギリス植民地とされた。1924年にプレンペ1世は帰国を許され、のちにふたたびアシャンティの首長となった。
[中村弘光]
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「アシャンティ王国」の意味・わかりやすい解説
アシャンティ王国【アシャンティおうこく】
17―19世紀に西アフリカ,ガーナ中央部で栄えたアシャンティAshanti族の王国。アサンテ王国とも。17世紀末にオセイ・トゥトゥ王がアシャンティ諸国の統一に成功してから強大になり,金と奴隷を輸出して得た銃で周囲の諸部族を次々に征服,18世紀末に最盛期を迎えた。19世紀に入ると貿易の利権独占を図り,沿岸部のファンティ諸国を支配下におこうとしたために英国と対立した。数度の戦争を行いしばしば英国を破ったが,1874年に王都クマシが陥落し,1901年英国植民地に併合された。クマシ北東方に残るアシャンティの伝統建築物は1980年世界文化遺産に登録された。
→関連項目ガーナ
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アシャンティ王国(アシャンティおうこく)
Ashanti
17世紀末~1901
西アフリカ,現ガーナ地域に住むアシャンティ人が形成した連合王国。アシャンティ人はいくつもの弱小国家をなしていたが,17世紀末クマシの王オセイ・トゥトゥがこれらを統合した。18世紀初めの彼の死後も,ヨーロッパ諸国へ奴隷,金を供給する形で繁栄し,19世紀には海岸部で交易をしていたファンティ諸国を攻撃,征服したが,ヨーロッパと直接対峙する形になり,1901年イギリスの前に敗れた。王の権威の象徴に「黄金の床几」がある。
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アシャンティ王国
アシャンティおうこく
Ashanti
17世紀〜1901年までガーナを支配した,アシャンティ族による連合王国
奴隷や金を銃と交換して繁栄し,18世紀末には黄金海岸西方の大半を支配した。19世紀になると海岸部に進出するが,逆にイギリスの侵入を受け,1901年イギリスの保護領となった。
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世界大百科事典(旧版)内のアシャンティ王国の言及
【王】より
…王は,日本の天皇がもつ〈三種の神器〉にあたるものをもたなければならない。たとえばアフリカにおいては,太鼓であったり(ウガンダのアンコーレ王国),床几であったり(ガーナのアシャンティ王国)する。しかしそれは,奪取すれば,その奪取した者が王の位に就くことができることを意味しない。…
【ガーナ】より
…アカン系の代表的なアシャンティ族はアサンテヘネと称される首長の系譜を持っている。17世紀後半,オセイ・トゥトゥという大首長が〈黄金の床几〉をシンボルとして,おのおのの部族国家を統合し,大アシャンティ連合([アシャンティ王国])という大きな政治単位を形成した。そして連合は,当時進出してきたヨーロッパ勢力,とくにイギリスやオランダとの武器の交易を利用していっそう強力になった。…
【クマシ】より
…商工業の中心であるほか,科学技術大学などの高等教育機関,博物館,農業試験場がある。17世紀末にアシャンティ(アサンテ)王国が成立し,1700年頃にクマシがその王都として建設された。19世紀にイギリスと激しく戦ったアシャンティ王国は1896年に敗れ,1901年にイギリス植民地ゴールド・コーストに併合された。…
【ファンティ国家連合】より
…19世紀後半,西アフリカのゴールド・コースト(現,ガーナ)沿岸部に形成されたアカン系ファンティ族Fanteの国家連合。当時この地域はイギリスの勢力圏下に置かれ,またファンティ族諸国は内陸部にあった同じアカン系アシャンティ族の[アシャンティ王国]と対立していた。1868年1月,ファンティ族諸首長ならびに教育あるアフリカ人の間で,イギリス,オランダ,アシャンティに対抗して結成されたのがファンティ国家連合である。…
※「アシャンティ王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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