アメリカの実業家、外交官。鉄道王E・H・ハリマンの子としてニューヨークに生まれる。エール大学卒業後、同族のハリマン商会や鉄道会社の役員を兼任。この一方、F・D・ルーズベルト政権期、全国復興局の行政官(1934~1935)、商務省実業諮問委・会長(1937~1940)を歴任。戦時期は武器貸与実施の特使(1941)、駐ソ大使(1943~1946)となり、大戦処理にかかわる重要国際会議に出席。G・F・ケナンとともに対ソ強硬論を説き、1946年駐英大使を経て国務長官に転じマーシャル・プランを推進、派欧移動大使、大統領特別補佐官、相互安全保障局長を歴任。1954年ニューヨーク州知事に当選するが、1958年N・ロックフェラーに敗れ再選を阻まれる。その後ケネディ、ジョンソン政権のもとジュネーブ協定(1962)、部分的核実験禁止条約(1963)、ベトナム和平交渉(1968)を担当した。民主党リベラル派の重鎮であった。
[牧野 裕]
アメリカの著名な鉄道業者。14歳からニューヨークのウォール街で事務員として働き,株式取引所仲買人を経て,1883年イリノイ・セントラル鉄道の経営に参加する。93年恐慌のなかでユニオン・パシフィック鉄道の再建に成功し,のち社長となった。セントラル・パシフィック鉄道,サザン・パシフィック鉄道にも影響力を伸ばし,1901年にはシカゴ・バーリントン・クインシー鉄道の支配をめぐってJ.J.ヒルと対決した。さらに極東にも目を向け,05年南満州鉄道の買収を試みたが,日本政府の反対により失敗した。
執筆者:小沢 治郎
アメリカの政治家。E.H.ハリマンの子で,鉄道経営にもあたったが,ニューディール政策のF.D.ローズベルトに起用され,34年に全国産業復興局役員となる。のち駐ソ大使(1943-46),商務長官(1946-48)などを経て,1955-59年ニューヨーク州知事となり,この間,大統領選に出馬した。特任移動大使(1961),国務次官(1963-65)にもなり,68-69年,ベトナム和平交渉の代表も務めた。米ソ関係に関する著書がある。
執筆者:長沼 秀世
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1848~1909
アメリカの実業家。投機業で財をなし,1880年代に鉄道産業に進出,ユニオン・パシフィックなどシカゴ以西の主要な鉄道を傘下に収めた。日露戦争後東アジアへの進出を図り,南満洲鉄道の買収を計画したが日本の反対で挫折した。
1891~1986
アメリカの政治家,外交官。父は鉄道王エドワード。財界をへて,第二次世界大戦中の駐ソ大使。戦後は商務長官,ニューヨーク州知事,国務次官,部分的核実験禁止交渉とベトナム和平交渉の代表。たびたび訪ソし,米ソ関係の安定化に尽力。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…さらに昭和40年代半ば以降山陽新幹線と中国自動車道が開通し,98年4月には明石海峡大橋が完成して東西の回廊的役割はいっそう強化されている。
[地域差の著しい自然環境]
県域の8割以上を丹波高地の一部,播但(ばんたん)山地,六甲山地などの山地,丘陵地が占め,まとまった平野は播磨灘沿岸に播磨平野,大阪湾沿岸に大阪平野の一部があるにすぎず,日本海側には平野は発達していない。しかし,鳥取県境に氷ノ山(ひようのせん)(1510m)など標高1000mをこえる山が連なるほかは脊梁山地に当たる高い山脈はなく,播但山地を横切る生野峠,遠阪峠も標高350m内外と低い。…
※「ハリマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新