翻訳|harem
アラビア語ハリームḥarīmがトルコ語に入ったもので,出入禁断の場所の意だが,とくにイスラム世界において家屋内の婦人専用の部分を意味する。イスラムの風俗習慣には,ジャーヒリーヤ時代からのアラビアのそれが引き継がれたものが多いが,婦人がベールで面部や他の部分をも覆う風習もイスラム以前からあった。しかしハレムに押し込められることは,イスラム時代になってから,とくに厳しく行われるようになった。コーラン33章53~59節には,メディナにあった預言者ムハンマドの家,とくにその妻たちに対しムスリムたちが守るべき心得をいろいろ記してある。たとえば〈食事への許しがないのに預言者の室内に入ってはならぬ。招かれた時に入れ。しかし食事が終わったなら,長話はせずに退散せよ。(預言者の妻たちに)何か尋ねる場合は帳の後ろからしなくてはならぬ。預言者の妻たちが(素顔を見られても)罪とならぬのは,彼女たちの父や息子たち,兄弟,兄弟の息子たち,姉妹の息子たち,それらの(同信の)女たち,および彼女たちの右手の所有する者たち(奴隷たち)のみである〉としている。またコーラン24章31節には,一般のムスリマ(女性のイスラム教徒)たちが守るべきこととして次の諸事が挙げられている。〈視線を低くし貞節を守れ。外に現れるもののほかは美(や飾り)を目だたせてはならぬ。ベールを胸の上に垂れよ。おのれの夫または父のほかには,美(や飾り)を現してはならぬ。夫の父,おのれの息子,夫の息子,おのれの兄弟,兄弟の息子,姉妹の息子,自分の女たち,自分の奴隷たち,性欲をもたぬ供廻りの男,女の身体に意識をもたぬ幼児のほかは(そうしなければならぬ)〉としてある。
これらの教えを典拠とし,中東地方の都市生活上の婦人隔離の風習がますます厳重に仕上げられたものがハレムである。ことに王侯貴族・富裕者の家庭で,この風習は顕著であり,中流以下では一夫一妻の家庭が普通であった。《千夜一夜物語》などには,アッバース朝時代のカリフや貴族たちのハレムの情景がよく描かれている。その中の最長編《オマル・ブヌ・アン・ヌウマーン王とその子たちの物語》によると,バグダードのその宮廷には1年の月数に従い12の宮殿があり,各宮殿に30の部屋があり,合計360の部屋にはそれぞれ1人ずつの側室が住み,王は各側室に年に一夜のみを割り当てていたとある。このような生活が中世の庶民の想像した最大規模のハレムの姿であったろう。ハレムの風習は社会の近代化とともに消滅しつつあるが,現在でも若干はその余風がある。1909年にオスマン帝国スルタン,アブデュル・ハミト2世が退位させられハレムも解散させられたのが,大規模な宮廷ハレムの終焉を告げるものであったという。
執筆者:前嶋 信次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イスラム世界で民家、館(やかた)、宮殿などの家屋において、婦人たちの起居する場所。アラビア語ハリームharīmのトルコ語化されたことばで、本来は「禁ぜられた」「神聖なる」を意味することばである。「コーラン」の聖句(第24章)のなかに、「貞淑を守れ、外に現れるもののほかは美や飾りを目だたせてはならない。自分の夫、親、舅(しゅうと)、息子、幼児以外のものに恥部を見せてはならない」と述べられている。これらの戒めが女性隔離の習慣となった。宮廷における女性の幽居制の始まりは、ウマイヤ朝の初代カリフ、ムアーウィヤ(在位661~680)のころといわれている。アッバース朝のカリフや高官のハレムのようすは『千夜一夜物語』に描かれていて名高い。
オスマン帝国の宮廷においてもハレムはつねに存在していた。とくに知られているのは、メフメト2世がコンスタンティノープル征服(1453)後、バヤジト地区に造営した宮殿で、ハレムの規則も制定された。帝はその宮殿から1465年に新たに建造したトプカプ宮殿に移るとき、ハレムの女性300人と70人の宦官(かんがん)をそこに残した。ハレムを監督するのは宦官たちで、初期にはスラブ系の白人宦官長もいたが、16世紀後半から廃止に至るまで黒人宦官長が務めた。トプカプ宮殿にハレムが移されたのは1578年ムラト3世が宮殿の奥に寝室を造営させた後といわれている。そこは以後、1853年にドルマバフチェ宮殿に移転するまで400年の間、歴代のスルタンによって次々と増築されたため、狭い通路、中庭、大小数百の部屋が雑然と並ぶ迷宮の様相を呈し、その原形はよくわからない。ハレム内の婦人たちはスルタンの親族(母后、夫人たち、その子供)、オダルック(「部屋付き」の意。側室候補である女奴隷)、彼女らを世話する女官たちからなっていた。スレイマン1世(在位1520~66)の時代まで、スルタンの配偶者は近隣の王の娘や豪族の娘から選ばれたが、帝国の領土拡大に伴い、戦争で捕虜になった者、奴隷商人から購入された者、高官から献上された者がハレムに入った。彼女たちは女奴隷(ジャーリエ)とよばれ、イスラム教に改宗し、読み書き、刺しゅう、踊り、楽器演奏などを学び、スルタンの目通りを待った。ハレム第一の権力者はスルタンの母親であった。1909年アブデュル・ハミト2世が退位させられると、最後の宮殿ユルドゥズ宮のハレムにいた女性たちは親類縁者に引き取られ、ハレムは事実上閉鎖された。
[永田雄三]
『板垣雄三編『世界の女性史 14 閉ざされた世界から』(1977・評論社)』
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出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
イスラーム社会の住居における女性専用の区画。もともと「禁じられた場所」の意。夫以外は男子禁制。元来の目的は女性の保護にある。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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