翻訳|veil
〈帆〉〈覆い〉〈幕〉などを意味するラテン語ウェルムvelumに由来し,神殿の帳(とばり)や聖像などの覆いをいうが,一般には顔や頭部を覆う薄地の軽い布のことをいう。おもに女性が顔を隠したり,保護したり,装飾のために用いる。衣服と共布,または別布の麻,綿,絹などで作られ,レースやししゅうがほどこされたものもある。古代ギリシアではカリュプトラkalyptraという軽い布をかぶったり,ヒマティオンやペプロスをフードのようにかぶったりした。ローマ時代の女性は結婚式に黄色いベールをつけた。中世にはキリスト教の教義が服飾にも影響を及ぼし,神と夫への従順を示す意味からも,既婚女性はベールを必ずつけるものとされた。中世末期以降の帽子の発達に伴ってベールの装飾性が強まり,14世紀に流行したヘナン帽にはベールがつけられ,地面に届くほど長いものがあらわれた。14世紀のイタリアではボローニャ製のものが良質として知られていたが,奢侈(しやし)禁止令の対象になり,夫を亡くした女性の頭をすっぽりと包みこむ喪のベールには金額の制限があった。18世紀のイギリスでは喪のベールの色は白や紫であった。結婚式に白い衣装に白のベールが使われはじめたのは,18世紀末であった。また喪の際の黒いベールが一般的になったのは19世紀といわれている。帽子の装飾としてもつけられるようになり,現在も使われている。なお,カトリックの修道女のベール着用(着衣式)は,神の花嫁になるということから既婚女性がベールをつけた中世の慣習に基づいており,その形や材質,色は多様である。
執筆者:池田 孝江
アラビア語ではブルクーburqu`がベールを意味する言葉としては一般的である。〈覆い隔てる〉という意味をもつヒジャーブḥijābも使われるが,これはアラブの女性解放運動の旗手カーシム・アミーンが唱えたスフール(ベールを外すこと)と対置される語でもある。ブルクーは目だけを残して身体を覆い,足元まで届く長い薄絹であるが,顔との間にすきまを保つために,カサバという筒状の芯を入れ,資力のある者はこれに金や銀の細工をこらしたものを使う。農村部では,モスリン地を黒く染めた布でタルハṭarḥaと呼ばれるものを今でも頭に巻いているが,身内以外の男性が入ってくると,それを下ろして顔を隠す。男に向かって〈タルハを着せてやる〉というのは,男性に対する侮べつの言葉として使われる。往時コプトの婦人は,戸外はもちろん,家の中でも客の前ではベールをつけ,未婚および下層の女性は白,既婚および上層の女性は黒地のベールをつけた。イスラムの教えでは〈顔を隠せ〉とは規定されておらず,都市の女性がベールをつけ,農村の女性がつけていない場合が多々ある。
執筆者:奴田原 睦明
フランスの思想家。ピレネー山麓ル・カルラのカルバン派の牧師の家に生まれ,ピュイローランとトゥールーズの学院に学んだ。1669年一時カトリックに改宗したが翌年には新教(プロテスタント)に復帰してジュネーブに逃れ,同地の新教大学で神学を学んだ。75年スダンの新教大学の哲学教授になったが,81年大学が閉鎖されるとオランダのロッテルダムに亡命し,同地の新教大学で哲学と歴史を教えて同地で没した。82年出世作《彗星雑考》を発表して道徳の宗教からの自立性を説き,スピノザのような〈有徳の無神論者〉の存在を強調した。84年から3年間,学界の消息,新刊書の抜粋と書評などを集めた月刊誌《文芸共和国便り》を出し,すぐれたジャーナリストとしても全欧に知られた。ナントの王令廃止直後の86年には《〈強いて入らしめよ〉というイエス・キリストの言葉の哲学的注解》を書いて,フランスにおける新教徒迫害にたいし良心の自由と宗教的寛容を訴え,ロックとともに寛容思想の先駆者となったが,このころからスダン以来の同僚で亡命フランス人の指導者であったジュリウーと,とくに寛容の問題をめぐって対立し,激しい論争の末93年にはついに教職を追われるに至った。
その後は大作《歴史批評辞典》に専念し,これは97年に刊行されたが,その後も多くの版を重ね,18世紀に広く読まれた。このベールの代表作は驚くべき博識と鋭い批判精神で,モレリの《歴史大辞典》をはじめとする従来の歴史辞典の不正確と偏向を正した〈誤謬の辞典〉であるとともに,また既成のあらゆる哲学体系を徹底的に批判し,理性によって絶対的真理に到達することの不可能性を例証する形而上学破壊の書であった。さらにその批判は宗教にも及び,教皇をはじめすべての教権を攻撃し,神の摂理や三位一体などキリスト教の主要な教理の理性的根拠を論破し,また神の善性と世界における悪や不幸の存在との矛盾を鋭く追究した。ベール自身は終生カルバン派の信仰を捨てなかったといわれるが,その懐疑主義から発する批判精神,形而上学の否定,宗教批判はボルテールなど18世紀前半の啓蒙思想家に大きな影響を与えた。
執筆者:赤木 昭三
フランスの生理学者で,アンナン・トンキン理事長官としてフランス領インドシナ連邦の建設に力を尽くした。自然科学者であり,文部大臣(在任1881-82)であったが,1885年以降のバンタン(文紳)蜂起で武断的なインドシナ政策が行き詰まり,文官的協同主義を標榜するフレイシネ内閣が登場するや,86年1月,とくに請われてアンナン・トンキン理事長官に任命され,4月ハノイに着任した。ベールは行政官における文官の比率を高めるとともに,現地人の政治機構への積極的利用を図り,中央に現地人有力者評議会を,地方各郡にはトンキン諮問会議を設置し,またフエ宮廷の権力を認めた。この結果,反乱は鎮静化したが,同時に封建的な権力,村落組織が温存され,ベトナムの二重社会構造が生まれた。
執筆者:桜井 由躬雄
フランスの歴史哲学者。19世紀の実証主義歴史学が細部の考証にとらわれて全体を見る眼を喪失したことを批判し,総合的視点の復権を提唱した。1900年《歴史総合雑誌Revue de synthèse historique》を創刊,L.フェーブルやM.ブロックなど若い世代の歴史家に強い影響を与え,フランス現代歴史学の誕生に大きく貢献した。20年《人類の発展》双書を創刊し,今日,新しい歴史学の代表的作品として知られる多くの名著を刊行したが,各巻冒頭には自ら長文の序を付して歴史の総合的把握の実践の場とした。また25年には〈総合研究国際センター〉を設け,学問の国際交流に努めた。
執筆者:二宮 宏之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
フランスの哲学者。南フランスのプロテスタントの牧師の家に生まれる。カトリックに改宗後、ただちに再改宗。そのため迫害にあってジュネーブへ逃亡し、カルバンの大学に学ぶ。その後、新教徒のセダン大学の哲学教授となる。1681年、大学の強制閉鎖にあい、ロッテルダムに移る。そこでは、1693年まで務めた市立大学の哲学と歴史学の教授職を、新教正統派の圧迫によって失っている。デカルト哲学から出発し、しだいに懐疑論的傾向を強め、信仰を反理性的なものとして理性と完全に対立させた。だが彼にあっては、理性も理論的には微力とされ、宗教を排した道徳の領域だけにその支配の可能性が認められた。ディドロなどの「百科全書」の先駆をなした『歴史的批判的辞典』(1696)や『彗星(すいせい)雑考』(1682)の著作、学芸新聞の『文芸共和国便り』(1684~1687)などによってさまざまな権威を批判し、宗教的寛容と思想の自由を説いて、次代の啓蒙(けいもう)思想家に大きな影響を与えた。
[香川知晶 2015年6月17日]
『野沢協訳『ピエール・ベール著作集』全8巻補巻1(1978~2004・法政大学出版局)』
装飾、保護、隠蔽(いんぺい)の目的で、頭や顔に着装する薄い布。透明なものも不透明なものもあり、素材もさまざまである。非常に古くからある被(かぶ)り物で、紀元前1200年にはアッシリアの既婚婦人が法令によってかぶることを定められ、ギリシア時代には衣服のキトンやヒマティオンで頭を覆わないときは、女性はクレデムノンkredemnonやテリストリオンtheristrionという白麻などのベールをかぶった。中世に、キリスト教によるベール着装の義務づけが広く行き渡り、以来宗派により教会では今日でもベールをかぶっている。13、4世紀には頭布(とうふ)のウィンプルやあご覆いのバルベットと組み合わせて装飾的に用い、庶民も色物などを用いた。15世紀のエナンも、装飾的にベールを用いた帽子で、とがったクラウンの先端が長くなるほど、そこから垂れるベールも長くなった。教皇グレゴリウス10世(在位1271~76)は、ぜいたくな頭飾りをやめベールだけにするよう命令したといわれる。現在は結婚衣装や喪服に、また盛装の際に用いるが、それ以外は日常使うことが少なくなった。
[浦上信子]
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…1680年の出現に際しても,詩人ミルトンらがその恐怖を詩に表した。同時にフランスのP.ベールが《すい星雑考》(1682)において,すい星と疫病などの迷信的な結合を否定し,すい星の科学的認識を普及させる努力も開始された。しかし1910年の事件に見られるように,すい星の科学的解明が進んだためにかえって大きな恐慌が起きるほど,この恐怖感は根強い。…
…後者はConversationslexikon(字義どおりには会話辞典)と題するタイプの最初のものであり,台頭する市民階級の世間的つきあいに必要な教養を提供する目的で編まれており,この系統は後の《ブロックハウス百科事典》などにつながっていく。さらに,この時期の代表例としては,フランスのP.ベールの《歴史批評辞典Dictionnaire historique et critique》2巻(1697)があげられる。理性的判断への信頼を強調するベールは,個々の知見の真偽を〈批判的〉に吟味しようとしたのである。…
…フランスの小説家。本名アンリ・ベールHenri Beyle。地方都市グルノーブルの富裕なブルジョア家庭の生れ。…
…ギリシア・ローマ時代には,被り物は旅行用・戦闘用以外にはほとんど用いられず,男性は布や金属製の細紐で,女性はリボンや飾り帯で頭髪を整えた。ビザンティン時代,服装は華美になり,女性は縁取りされた透明なベールをつけ,その上に金銀細工の輪や小さな帽子をのせた。中世には特徴のある各種の被り物が発達した。…
…テントの中には,女性や子どもが居る家族用の区画と,男性が客を招いたときに使用する来客用の区画とが,垂れ幕で仕切られている。 ベドウィンの衣服は,夏の暑さ,冬の寒さや乾燥した空気をしのげるように,適当なゆるみをもたせて作られており,男性がかぶるクーフィーヤkūfīyaと呼ばれる布や,女性のタルハṭarḥa(ベール)は,直射日光や砂ぼこりから身体を保護する重要な役目を果たしている。このような衣類は,生活に必要な他の道具類や食料と同様,ほとんど町の〈ベドウィン市場〉からの購入品である。…
…歌詞を付された対位旋律は〈モテトゥスmotetus〉(ラテン語)と呼ばれ,その語源は古いフランス語で〈ことば〉を意味するmotであったとされる。やがて1240年ころからモテトゥスの名は,その種の作風をもつ楽曲自体の呼称となり,付加声部の数も2声部,まれには3声部にまで増大し,グレゴリオ聖歌の部分を拡大した定旋律の上に,フランス語のテキストをもち,トルベール歌曲の流れを引く世俗歌曲が置かれるという聖俗混交の形も現れた。さらに14世紀には,イソリズムisorhythm(またはアイソリズム)と呼ばれる一定の長さのリズム型を,いわばリズム的フレーズとして,音高にかかわりなく1ないし全声部に適用した高度に技巧的な作風が現れた(マショー)。…
※「ベール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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