ベール(読み)べーる(英語表記)Pierre Bayle

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベール」の意味・わかりやすい解説

ベール(Pierre Bayle)
べーる
Pierre Bayle
(1647―1706)

フランスの哲学者。南フランスのプロテスタントの牧師の家に生まれる。カトリック改宗後、ただちに再改宗。そのため迫害にあってジュネーブへ逃亡し、カルバンの大学に学ぶ。その後、新教徒のセダン大学の哲学教授となる。1681年、大学の強制閉鎖にあい、ロッテルダムに移る。そこでは、1693年まで務めた市立大学の哲学と歴史学の教授職を、新教正統派の圧迫によって失っている。デカルト哲学から出発し、しだいに懐疑論的傾向を強め、信仰を反理性的なものとして理性と完全に対立させた。だが彼にあっては、理性も理論的には微力とされ、宗教を排した道徳の領域だけにその支配の可能性が認められた。ディドロなどの「百科全書」の先駆をなした『歴史的批判的辞典』(1696)や『彗星(すいせい)雑考』(1682)の著作、学芸新聞の『文芸共和国便り』(1684~1687)などによってさまざまな権威を批判し、宗教的寛容と思想の自由を説いて、次代啓蒙(けいもう)思想家に大きな影響を与えた。

[香川知晶 2015年6月17日]

『野沢協訳『ピエール・ベール著作集』全8巻補巻1(1978~2004・法政大学出版局)』


ベール(布)
べーる
veil

装飾、保護、隠蔽(いんぺい)の目的で、頭や顔に着装する薄い布。透明なものも不透明なものもあり、素材もさまざまである。非常に古くからある被(かぶ)り物で、紀元前1200年にはアッシリアの既婚婦人が法令によってかぶることを定められ、ギリシア時代には衣服キトンヒマティオンで頭を覆わないときは、女性はクレデムノンkredemnonやテリストリオンtheristrionという白麻などのベールをかぶった。中世に、キリスト教によるベール着装の義務づけが広く行き渡り、以来宗派により教会では今日でもベールをかぶっている。13、4世紀には頭布(とうふ)のウィンプルやあご覆いのバルベットと組み合わせて装飾的に用い、庶民も色物などを用いた。15世紀のエナンも、装飾的にベールを用いた帽子で、とがったクラウンの先端が長くなるほど、そこから垂れるベールも長くなった。教皇グレゴリウス10世(在位1271~76)は、ぜいたくな頭飾りをやめベールだけにするよう命令したといわれる。現在は結婚衣装や喪服に、また盛装の際に用いるが、それ以外は日常使うことが少なくなった。

[浦上信子]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベール」の意味・わかりやすい解説

ベール
Bayle, Pierre

[生]1647.11.18. フランス,カルラルコント
[没]1706.12.28. オランダ,ロッテルダム
啓蒙主義のさきがけとなったフランスの懐疑論的哲学者(→懐疑論)。カルバン派の家庭に生まれ,1669年カトリックに改宗したが翌 1670年カルバン派に戻り,ジュネーブでデカルト哲学にふれ,1675~81年スダンのプロテスタントのアカデミーで教えた。のちロッテルダムに移って哲学と歴史を教え,1684~87年『文芸国通信』Nouvelles de la république des lettresを刊行。ルイ14世の迫害政策を非難し,カルバン主義を擁護し,ピエール・ジュリューと対立,1693年教授職を追われた。以後『歴史批評辞典』Dictionnaire historique et critique(1697)の編纂に専心。

ベール
veil

頭部や顔の保護,装飾,宗教上の目的などでかぶられる一般には薄い布地や網地の呼称。この慣習は古代オリエントに始り,前 1000年代のアッシリアでは,既婚女性がベールで顔をおおうべきことが法で定められていた。現在も根強く踏襲されているイスラム教徒のチャドリはこの慣習を受継いだものである。一方古代オリエントからエジプトやギリシア,ローマへ伝わり,やがてキリスト教の普及とともにヨーロッパへ広まり,西洋中世女性の最も普遍的なかぶりものとなった。今日,キリスト教の尼僧やウェディングドレスに残っているベールをかぶる慣習は,これを踏襲したもの。こうした儀礼用を除けば近世以降,ベールは次第に装飾化している。

ベール
Bale, John

[生]1495.11.21. サフォーク
[没]1563.11. カンタベリー
イギリスの聖職者,劇作家。 12歳でカルメル会に入り,一時修道会副院長にまでなったが,1533年頃プロテスタントに改宗,誓願を破って結婚し,世俗的生活をおくった。この間多くの宗教劇を書き,52年にはアイルランド主教となった。国王エドワード6世の死と同時に身の危険を感じオランダに逃亡,エリザベス1世の即位の翌 59年帰国した。劇の代表作はプロテスタンティズムを擁護した『ジョン王』 King John (1548頃) 。

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