ロシアの革命家。無政府主義と人民主義の指導者。トベリ県(現、カリーニン州)の富裕な地主貴族の家に生まれる。砲兵士官学校を卒業後、一時少尉補として勤務したが、哲学にひかれて退役。モスクワに住んでスタンケービチのサークルに入り、ベリンスキー、ゲルツェンらと交わって、ドイツ観念論哲学、とくにフィヒテとヘーゲルの哲学を学んだ。1842年ベルリン大学に留学、急速にヘーゲル左派に近づき、変名で論文「ドイツにおける反動」を発表し、真の創造のための革命的破壊を呼びかけた。1848~1849年の革命に参加し、ドレスデンの蜂起(ほうき)の指導者の一人となったが、ザクセンの官憲に逮捕されてロシア政府に引き渡され、禁錮(きんこ)刑ののちシベリア流刑となった。しかし1861年に脱出し、日本、アメリカを経てロンドンへ渡り、ここで旧友のゲルツェンやオガリョフとともに、ロシアの専制に抗して立ち上がったポーランド人民の反乱を支持し、ロシア国内の青年に革命を呼びかけた。1868年にはマルクスの創始した国際労働者協会(第一インターナショナル)のジュネーブ支部に加入したが、マルクスと対立し、1872年のハーグ大会で除名された。しかし、マルクスの考えを中央集権的な上からの社会主義として批判し、これに対して下からの自由意志に基づく連合と無政府を唱導した。このようなバクーニンの考えは、イタリア、スイス、スペインの社会主義とアナキズムの革命家に大きな影響を与えた。その後1870年のリヨンの蜂起、1874年のボローニャの蜂起に参加したあと、1876年7月1日スイスのベルンで病死した。主著に『鞭(むち)のゲルマン帝国と社会革命』(1871年執筆)や『国家制度とアナーキー』(1873年執筆)がある。
[外川継男 2015年10月20日]
『外川継男・左近毅編『バクーニン著作集』全6巻(1973~1974・白水社)』▽『左近毅訳『国家制度とアナーキー』新装復刊(1999・白水社)』▽『E・H・カー著、大沢正道訳『バクーニン』上下(1965/新装版・1970・現代思潮社/オンデマンド版・2013・現代思潮新社)』▽『ピルーモヴァ著、佐野努訳『バクーニン伝』上下(1973・三一書房)』
ロシアの革命家,アナーキズムとナロードニキ主義の理論家。貴族の出身で,軍人としての教育を受け将校となったが,1835年転身を望んで退役,36-40年モスクワに移り,ドイツ哲学に親しんだ。その間,スタンケービチ,ベリンスキーらと交わった。40年からベルリン大学で学ぶうちヘーゲル左派を介して政治に傾き,《ドイツにおける反動》(1842)を著し,さらにプルードン,ワイトリング,レレベルらと接して,社会主義とパン・スラブ主義への共感を強め,ついに亡命を決意した。48年に革命気運が高まるや各国へ飛んで決起を呼びかけ,翌年ドイツのドレスデン蜂起で逮捕され,ロシア政府の手に渡って政治監獄へ幽閉の身となった。のち減刑されてイルクーツクに住むうち逃走を計画,日本,アメリカを経てロンドンに渡った。
同地でゲルツェンの革命雑誌《コロコル》に協力するが,戦術をめぐって対立,イタリアへ移って国際同胞団Internatsional’noe bratstvoを結成,67年平和自由連盟大会に出席し,その綱領とすべく《連合主義,社会主義,反神学主義》を書いた。翌年スイスに転じ,《人民の事業Narodnoe delo》誌を刊行,また国際社会民主同盟を結成,のち解散の形をとって第一インターナショナルへの加入を果たしたが,バーゼル大会でマルクス派との対立が明らかとなった。かたやネチャーエフと協力してロシア向けの革命文書を書き,祖国の革命に変わらぬ関心を示した。反権威主義を掲げたバクーニンは,マルクス派との対立を深め,秘密結社ジュラ連合を設立して自派を強化,72年の彼の除名後もなお両派の応酬は続いた。《あるフランス人への手紙》(1870)でフランスの決起を促し,翌1871年パリ・コミューンが誕生すると,これを強く支持した。この年《鞭のゲルマン帝国と社会革命》《神と国家》などを著し,2年後の73年には《国家制度とアナーキー》を書き上げて引退を決意,数年後ベルンで死んだ。クロポトキンと並び,日本の社会運動にも強い影響を及ぼしてきた。
→アナーキズム
執筆者:左近 毅
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1814~76
ロシアの革命家,無政府主義者。貴族の長男に生まれ,砲兵学校出の少尉の地位を捨ててベルリンで哲学を研究し,パリでプルードン,マルクスを知った。1849年のドイツの三月革命後逮捕されシベリア流刑,脱走してのち第1インターナショナルに参加。マルクスのプロレタリアート独裁論に反対して除名され,「自由な共同体の自由な連合」を強調する無政府主義の立場を一層強めた。
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…これに対し,アナーキズムに一定の社会組織のイメージと理論的基礎づけとを与えようとしたのは,19世紀中葉のフランスにおけるプルードンであったが,ここにはサン・シモン,フーリエ以来の社会主義思想の蓄積が生かされており,これを集産主義的アナーキズムと呼ぶ論者もある。同じような系譜に立ちながらも,国家と権威の否定をより強力に叫び,さらにはネチャーエフとの関係などでアナーキズムにテロリズムの色彩を与えさえしたのは,ロシアから出て欧米諸国に広く足跡を残したバクーニンである。彼は第一インターナショナルの中でのマルクスとの論戦を通じて,アナーキスト勢力を一つの党派にまでまとめ上げたといえる。…
…そして協会を,労働者階級の政治権力獲得をめざす強固な政党組織に変えようとした。他方,ジュラ地方(フランス東部),イタリア,スペインなどの支部は,国家を否定するバクーニンの強い影響もあって,〈反権威主義〉を唱え支部の自治を擁護した。両派は激しく対立し,3年ぶりで開かれ,初めてマルクスも出席した72年のハーグ大会でバクーニンらは除名された。…
…その一つ,チャイコフスキーNikolai Vasil’evich Chaikovskii(1850‐1920)のサークルから70年代の主要な活動家がつくり出された。ラブロフの《歴史書簡》から,批判的に思惟しうる知識人は民衆に債務を返さなければならないという考えを与えられた学生たちは,バクーニンの農民反乱の切迫性の考えにも動かされ,74年,〈人民の中へ〉の運動をおこした。数千人が職人や人夫に姿をかえて村々をまわり,革命を宣伝しようとしたが,農民に受け入れられずに終わった。…
※「バクーニン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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