翻訳|Bologna
イタリア北部,エミリア・ロマーニャ州の州都で,同名県の県都。人口37万3743(2005)。ポー平原の南東部とアペニノ山脈の山ろく部の丘陵との境に位置し,古くから北部と中部を結ぶ交通の要所であり,今日でも鉄道幹線,高速道路などの重要な中継地である。政治的には,左翼勢力の強い都市として著名。
エトルリア人が建設した都市で,その後,前189年にローマの支配下に入り,この都市に沿うアエミリア街道の建設とともに経済的に繁栄した。蛮族の侵入により一時衰えたが,10世紀ごろ再び経済的に息を吹き返し,11世紀の大学(ボローニャ大学)の成立によって,当時のヨーロッパの文化,学問の一中心地となった。12世紀の初めにコムーネとなり,イタリアのみならずヨーロッパ各地からの学生の集中によって,人口が飛躍的に増大し,都市も膨張し,経済活動を刺激した。しかし政治的には安定を欠き,ペポリPepoli,ベンティボリオBentivoglioなどの都市貴族,あるいはミラノのビスコンティ家などが支配を争ったものの,どれも長期的なシニョリーア制を確立するにはいたらず,1513年以後イタリア統一まで,ナポレオン時代を除き教皇領であった。16世紀末以後,絵画の分野でカラッチ一族,G.レーニなどに代表されるボローニャ派の活躍をみたが,教会の支配下で文化的にも経済的にも停滞した。イタリア統一後は,再びこの地方の文化的中心として,また伝統的手工業や中小企業を基盤にした商工業都市として発展し,人口も増大した。今日でも,食品,靴,木材,家具などの伝統的な工業が支配的であるが,機械,金属,精密機械なども発展しつつある。第2次世界大戦で町の一部を破壊されながらも,中世そのままの町並み,歴史的建造物がよく保存されているのは,戦後の急速な都市の膨張に対処するために策定された周到な都市計画によるところが大きい。歴史的区域の町並み保存や周辺地域の住宅地整備などでイタリアのほかの都市に先んじている。柱廊(ポルティコ)つきの古い建物が連なる町並みがみられる。
執筆者:萩原 愛一
町の中心に隣接してあるマッジョーレとネットゥーノの二つの広場を囲んで,巨大なサン・ペトロニオ教会(1390起工。未完),13世紀のアーケードと後代のファサードを連ねるパラッツォ・コムナーレ(市庁舎),片面にネプトゥヌスの噴水(ジョバンニ・ダ・ボローニャ作。1566)を見下ろすパラッツォ・デル・ポデスタが建つ。ポルタ・ラベニャーナ広場には二つの塔が建ち,1109年建設のアシネリ家の塔は高さ100mに達する。ボローニャでは12世紀に名家が競って塔を建て,ダンテが遊学していたころには,180以上の塔があったといわれる。また,さまざまの宗教建築からなるサント・ステファノ教会堂群は5世紀にさかのぼるとされ,8角形の聖墳墓教会(12世紀再建)などを含む。
執筆者:五十嵐 ミドリ 国立美術館はナポレオンの占領時代に設立され,1808年にイエズス会の修道院のあった現在の場所に移された。その後ナポレオンがパリに持ち去った貴重な絵画作品の返却に続き,81年にザンベッカーリZambeccariのコレクション,1927年にはマルケジーニMarchesiniの近代絵画のコレクションの寄贈をうけ,収蔵作品の内容は充実した。14世紀のビターレ・ダ・ボローニャに始まり,カラッチ一族,G.レーニ,G.M.クレスピにいたるまでのボローニャ派の展開を知るうえで重要な美術館であるが,ジョット,ペルジーノ,ラファエロなどの作品も注目される。
執筆者:生田 圓
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イタリア北東部、エミリア・ロマーニャ州の州都。人口36万9955(2001国勢調査速報値)。トスカナ‐エミリア・アペニン山脈の北麓(ほくろく)、レーノ川とサーベナ川に挟まれた平野部のエミリア街道沿いに位置する。イタリアの北部と中・南部を結ぶ重要な交通の要地、農産物の集散地。食品加工、製靴、木材加工、ゴム、金属、精密機械、プラスチックなどの多様な工業があるが、規模からいえば中小企業が一般的である。市中にはゴシック様式のサン・ペトローニオ大聖堂(14~17世紀)、14~17世紀のボローニャ派絵画のコレクションが収められるコムナーレ宮殿(13世紀)、ラファエッロの『聖女チェチリア』などが収蔵される国立絵画館、アシネッリ塔(98メートル)とガリゼンダ塔(48メートルで未完)という二つの斜塔(12世紀)、ジャンボローニャによるブロンズの彫刻像『ネプチューンの噴水』(16世紀)など、特記すべき美術作品・歴史的建築物が多い。1972年には歴史地区の保存と修復を目ざした本格的な施策が打ち出されるなど、都市計画に関してはファシズム期以来の伝統を有している。
[堺 憲一]
ボローニャの前身フェルシナFelsinaの起源は、ビッラノーバ文化が栄えていた紀元前9世紀にまでさかのぼる。前6~前4世紀のエトルリア人の支配などを経て、前189年ローマの植民市となる。その後、紀元後12~13世紀には、商業、穀作、絹・麻織物業を土台にして大いに栄えた。また11世紀に創設されたと推定されるボローニャ大学は、法学研究を主体として発展し、神学研究のパリ大学と並んでヨーロッパに名声を博した。1371年の人口は5万人といわれている。14世紀以降、絵画のボローニャ派の拠点となる。1513年からは教皇領となり、その状態がナポレオン時代(1796~1814)を除いてイタリア統一まで続いた。
[堺 憲一]
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中部イタリアの都市。古代以来重要都市であったが,中世にグェルフ派有力都市としてドイツ皇帝に対抗したのち,諸領主争奪の対象となった。近世以降教皇領の中枢となり,1831年,48年の革命をへて60年にサルデーニャ王国に併合。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…この結果,中部イタリアの〈赤いベルト地帯〉に共産党を主体とする州自治体が成立した。中央議会で万年野党の共産党は,かねてより地方自治体での活動を重視しており,たとえば中世都市ボローニャは,戦後一貫して共産党が市政を担当し,同党はそのボローニャを地方自治のモデル都市として機会あるごとに内外に印象づける努力をしてきた。地方選挙における共産党の進出は,こうした効果の表れでもあるが,福祉事業や社会サービスなど市民生活に直結する業務が中央の行政機関から州のそれに移行したことは,従来の行政のあり方に変化をもたらすことになる。…
…現在もイタリア国内で最も経済活動の活発な地域となっている。平野の北側はベルガモ,ブレシア,ベローナ,ビチェンツァの諸都市を結ぶ線,南側はアレッサンドリア,ピアチェンツァ,パルマ,モデナ,ボローニャ,リミニの諸都市を結ぶ線で囲まれ,その間を流れるポー川に沿ってパビア,クレモナ,マントバ,フェラーラなどの都市がある。これらの都市の多くは中世にコムーネ(自治都市)を形成した伝統的な都市で,ポー平原においてはこうした諸都市が周辺の農村部を合わせてそれぞれに固有の地域世界をつくっているのが特徴である。…
…ユネスコでも76年〈ナイロビ勧告〉(歴史的地区の保全および現代的役割に関する勧告)をまとめている。 実際の保存計画も60年代末から各国で試みられるようになり,イギリスではバース,チェスター,チチェスター,ヨークの4都市にパイロット・プロジェクトを立て,イタリアでは72年にボローニャの歴史地区を再生して庶民住宅を供給する政策を開始した。従来の保存事業が,文化遺産と日常生活を別個の次元でとらえがちであったのに対して,文化遺産を継承することによって日常の生活環境を向上させるという姿勢が生じたのである。…
※「ボローニャ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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