日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボローニャ」の意味・わかりやすい解説
ボローニャ
ぼろーにゃ
Bologna
イタリア北東部、エミリア・ロマーニャ州の州都。人口36万9955(2001国勢調査速報値)。トスカナ‐エミリア・アペニン山脈の北麓(ほくろく)、レーノ川とサーベナ川に挟まれた平野部のエミリア街道沿いに位置する。イタリアの北部と中・南部を結ぶ重要な交通の要地、農産物の集散地。食品加工、製靴、木材加工、ゴム、金属、精密機械、プラスチックなどの多様な工業があるが、規模からいえば中小企業が一般的である。市中にはゴシック様式のサン・ペトローニオ大聖堂(14~17世紀)、14~17世紀のボローニャ派絵画のコレクションが収められるコムナーレ宮殿(13世紀)、ラファエッロの『聖女チェチリア』などが収蔵される国立絵画館、アシネッリ塔(98メートル)とガリゼンダ塔(48メートルで未完)という二つの斜塔(12世紀)、ジャンボローニャによるブロンズの彫刻像『ネプチューンの噴水』(16世紀)など、特記すべき美術作品・歴史的建築物が多い。1972年には歴史地区の保存と修復を目ざした本格的な施策が打ち出されるなど、都市計画に関してはファシズム期以来の伝統を有している。
[堺 憲一]
歴史
ボローニャの前身フェルシナFelsinaの起源は、ビッラノーバ文化が栄えていた紀元前9世紀にまでさかのぼる。前6~前4世紀のエトルリア人の支配などを経て、前189年ローマの植民市となる。その後、紀元後12~13世紀には、商業、穀作、絹・麻織物業を土台にして大いに栄えた。また11世紀に創設されたと推定されるボローニャ大学は、法学研究を主体として発展し、神学研究のパリ大学と並んでヨーロッパに名声を博した。1371年の人口は5万人といわれている。14世紀以降、絵画のボローニャ派の拠点となる。1513年からは教皇領となり、その状態がナポレオン時代(1796~1814)を除いてイタリア統一まで続いた。
[堺 憲一]