ロシアの革命家。貧しい家庭の中で独学し,教師資格を得るかたわらペテルブルグ大学の聴講生となって,1868-69年の大学紛争に加わり,学生運動の革命化を図ってトカチョーフとともにラディカル少数派に立った。自ら投獄のうわさを流しておいて,69年3月ひそかにスイスへ脱出,バクーニンやオガリョーフに接近して革命資金を入手し,前者とともに革命を訴えるいくつかの宣伝文書を作成した。とりわけ有名なのは《革命家のカテキズム》(1869)で,その主張は〈目的のために手段を選ばぬ〉として,後年〈革命のマキアベリズム,革命のイエズス主義〉と評された。69年9月モスクワへ戻り,架空の〈世界革命同盟Vsemirnyi revolyutsionnyi soyuz〉ロシア代表を名のって〈人民の裁きNarodnaya rasprava〉という秘密結社を結成した。しかし極端な革命的リゴリズムは組織内に反目と対立をもたらし,メンバーの一人でペトロフスキー農業大学(現,ティミリャーゼフ記念農業大学)の学生イワン・イワノフを,モスクワ郊外の同大学構内で殺害した。事件は明るみに出て,およそ1ヵ月後の12月中旬,当局は関係者の逮捕と革命組織の摘発に乗り出し,約300名が拘禁され,87名が裁判にかけられるという大がかりなものになったが,ネチャーエフ自身は再び国外に脱出した。同事件を契機に,ドストエフスキーが《悪霊》を執筆したことはよく知られている。再度スイスに姿を現したネチャーエフは,1870年夏までに《コロコル》《人民の裁き》誌を刊行したものの,その無原則性や挑発的で策略的な行動はついにバクーニンらの不信を買い,絶対的孤立に陥ったあげくに逮捕され,ロシア警察に引き渡された。73年1月,20年の懲役判決を下され政治監獄に収容されたものの,なお革命運動への強い意志を保ち続けて看守らを説得し,獄外の革命組織〈人民の意志〉派と連絡をとることに成功した。外部から救出が計画されたが,皇帝アレクサンドル2世の暗殺を経て革命運動は厳しく弾圧されて頓挫し,結局獄死した。
執筆者:左近 毅
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
ロシアの革命家。1868年末から翌年初めにかけて、ペテルブルグ大学の学生運動に参加したあとスイスに脱出。ここで老革命家バクーニンに近づき、革命を宣伝する文書を出版。69年8月ロシアに戻り、モスクワに「人民裁判」という名の秘密結社をつくった。同志イワノフから批判されるや、これを殺害し、ドストエフスキーの『悪霊』執筆にヒントを与えた。72年スイスで逮捕されたあと、ロシアに引き渡され、獄中で死んだ。
[外川継男]
『ルネ・カナック著、佐々木孝次訳『ネチャーエフ』(1964・現代思潮社)』
1847~82
ロシアの革命家。革命のためには手段を選ばないという思想を持ち,バクーニンとともに『革命家の教理問答』を書き,批判的なメンバーを官憲に内通したとして処刑した。1872年逮捕され,獄死した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…この二人の思想を受け入れた青年たちの運動は61年以後の農奴解放の実施期に展開されたが,これが広範なひろがりをもち,一世代の青年・学生の運動となったのは70年代のことである。 ネチャーエフのマキアベリズムに反発した学生たちは,〈自己形成〉のサークルをつくった。その一つ,チャイコフスキーNikolai Vasil’evich Chaikovskii(1850‐1920)のサークルから70年代の主要な活動家がつくり出された。…
※「ネチャーエフ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新