ベリンスキー(読み)べりんすきー(英語表記)Виссарион Григорьевич Белинский/Vissarion Grigor'evich Belinskiy

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ベリンスキー」の意味・わかりやすい解説

ベリンスキー
べりんすきー
Виссарион Григорьевич Белинский/Vissarion Grigor'evich Belinskiy
(1811―1848)

ロシアの批評家。ペンザ県チェンバル(現ベリンスキー市)の貧しい田舎(いなか)医師の家に生まれる。1829年に国の奨学生としてモスクワ大学文学部に入学。在学中に書いたシラーばりの戯曲『ドミトリー・カリーニン』の農奴制批判などが災いして、32年大学を追われる。翌33年、批評家であり『テレスコープ』誌・『モルバ』紙の編集者でもあったナデージジンに招かれ、文芸批評の道に踏み出す。デビュー論文「文学的空想」(『モルバ』紙、1834)でロシア文学の過去と現在を概観し、ロシアに真の文学はないと断罪、真の文学の出現を熱烈に訴えた。

[藤家壯一]

現実との和解

1833年のもう一つの重要事はスタンケービチとの出会いで、ベリンスキーはこのスタンケービチ・サークルにおいてボトキン、バクーニンなど終生の友を得ただけでなく、シェリングフィヒテヘーゲルなどのドイツ哲学を知り、熱中した。とくに37年秋以降はバクーニンを通じてヘーゲル哲学に心酔し、「存在するものはすべて合理的である」との観点から、政治的には現存社会を是認し、美学的には芸術至上主義を提唱した。40年代初頭までのこの時期を「現実との和解」の時期といい、ベリンスキーの危機の時代とされる。この時期には『ハムレット論』(1838)、『ボロジノ会戦記念日』(1839)などが書かれている。

[藤家壯一]

現実の変革へ

しかし処女戯曲やデビュー論文でみせた農奴制批判や、現実から遊離したロシアの亜流ロマン主義文学批判は彼の奥深くに生き続けており、1839年に『祖国雑記』誌の批評部門を担当すべく招かれてペテルブルグに移り住み、ゲルツェンを通してフォイエルバハの唯物論哲学を知るに至って、この「現実との和解」の危機は克服されていった。そしてこれ以後、彼はロシアの進むべき道、ロシア文学のあるべき姿を求めて精力的に評論活動を展開する。『ロシアの明敏なる改造者ピョートル大帝の事蹟(じせき)』(1841)で、西欧をモデルとするロシアの近代化こそが人間的な社会への道であり、人類の普遍文明に加われる唯一の道であると主張して、いわゆる西欧主義の立場にたち、『批評論』(1842)においては、芸術も時代精神の反映であり、現実に対する批判を失ってはならないと説き、芸術至上主義を捨てた。43~48年に発表した11の論文からなる「プーシキン論」ではロシア文学の歴史的な流れと個々の作家についての鋭く深い考察を行い、ロシア文学がプーシキン時代を経て新しい時代、すなわちゴーゴリ時代、リアリズム文学の時代を迎えたことを強調した。この見地から彼は、ツルゲーネフゴンチャロフ、ネクラーソフ、ドストエフスキーなどをいち早く認めて高く評価し、批評眼の確かさを立証している。なお、ゴーゴリが晩年近くにロシアの過去と現状を容認するかのような発言をした(『交友書簡選』1847)ことにベリンスキーはただちに反論し、非人間的な農奴制と専制政治のうえに築かれているロシアの現状を激しく糾弾した(『ゴーゴリへの手紙』1847)。死の年に書かれた『1847年のロシア文学概観』は、歴史的視点から文学をとらえ、現実から遊離しないリアリズム文学を擁護し、真の国民文学を期待するという彼の批評の方法と目的とがもっとも端的に表れているという意味でもベリンスキーの代表論文といえる。

[藤家壯一]

『二葉亭四迷訳『美術の本義』『米氏文辞の類別』(『二葉亭四迷全集 第五巻』所収・1965・岩波書店)』『除村吉太郎訳『ロシア文学評論集』全二冊(岩波文庫)』『金子幸彦訳『批評論』、和久利誓一訳『ゴーゴリへの手紙』(『世界大思想全集27』所収・1954・河出書房)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ベリンスキー」の意味・わかりやすい解説

ベリンスキー
Belinskii, Vissarion Grigor'evich

[生]1811.6.11. フィンランド,スベアボルク
[没]1848.6.7. ペテルブルグ
ロシアの評論家。貧しい医師の家に生れ,モスクワ大学に学んだが,専制政治を批判する戯曲『ドミトリー・カリーニン』 Dmitrii Kalinin (1830) を書き退学処分になった。 N.スタンケビッチ,M.バクーニンらと交わり,ヘーゲル哲学を研究,それを批判的に摂取し,社会変革の武器とした。文学の面では A.プーシキン,M.レールモントフ,N.ゴーゴリについて多くの評論を書き,リアリズムに理論的な基礎づけを与えた。 F.ドストエフスキーの処女作『貧しき人々』を絶賛し,彼が世に出るきっかけをつくったことは有名。おもな評論に『文学的空想』 Literaturnye mechtaniya (34) ,『プーシキン論』 Sochineniya Aleksandra Pushkina (43~46) がある。

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