ロシアの思想家,作家。貴族を父,ドイツ官吏の娘を母として生まれ,父イワン・ヤコブレフは息子にドイツ語のHerz(心)に由来する新しい姓を与えた。14歳のとき盟友オガリョフと共に〈雀が丘〉(現,レーニン丘)でデカブリストの遺志を継ぎ,農奴解放と専制政治の打倒に生涯を捧げることを誓い,これを実行した。1829年モスクワ大学物理数学科に入学,オガリョフとサークルを組織,サン・シモン,フーリエらフランスの社会主義思想に傾倒した。34年反政府的言動のかどで逮捕・流刑。39年にモスクワに帰還,ヘーゲル哲学の保守的解釈を奉ずるスタンケービチのサークルの人々と論争し,独自の研究のすえ〈革命の代数学〉としてのヘーゲル解釈に到達した。次いでヘーゲルの汎論理主義を克服し,大陸合理論とイギリス経験論とを統合しようと企て,《自然研究書簡》(1844-45)を書いた。これはヘーゲル左派の立場から書かれた西欧哲学史で,19世紀ロシア哲学の水準を示す著作と評価されている。西欧派とスラブ派の論争においては前者の一人とみなされてはいたが,当時の西欧については社会主義的観点からする批判的見解を持ち,派内にあっては特異な地位を占めた。父の死を契機に47年出国,亡命した。西欧ではパリの六月蜂起をはじめ1848年革命の挫折に際会し,近代市民社会の暗黒面を目撃,歴史の西欧的発展の必然性に疑問を抱き,ロシア独自の発展の可能性を探求。その過程でロシアの農村共同体を社会主義社会への礎石として再認識し,ロシアの共同体原理と西欧の個の原理とを結びつける〈ロシア社会主義論〉を説き,ナロードニキ主義の先駆となった。53年にはロンドンで〈自由ロシア出版所〉を設立,ロシア国内での禁書の刊行と雑誌《北極星》や新聞《コロコル》の発行とに従事し,国内の反政府運動を助けた。また西欧の社会主義者,民族主義者とも広く交際し,ロシアと西欧との革命運動の連携を図った。晩年にはポーランドの民族解放運動の評価をめぐり,国内の自由主義者や若い亡命者たちと対立し,70年,不遇のうちにパリで客死した。評論集《向う岸から》(1847-50)に見られる,個人の主体性を重視する彼の歴史哲学は,今日,実存主義との関連において,新しい脚光を浴びつつある。小説《誰の罪か》(1841-46)は,40年代の文芸潮流〈自然派〉を代表する作品の一つで,主人公ベリトフはロシア文学に固有な〈余計者〉の一人に数えられている。ほかに自伝的回想記《過去と思索》がある。
執筆者:長縄 光男
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19世紀ロシアを代表する思想家、作家。名門貴族の庶子として生まれ、ドイツ語のHerz(心)に由来する新しい姓を与えられた。専制政治の打倒と農奴解放という少年時代からの志を、生涯を通して貫き、デカブリストと並んでロシア革命運動の先駆者の一人に数えられている。百科全書派からサン・シモン、フーリエに至る一連のフランス社会思潮に関心を抱き、とくにいち早くプルードンの思想に注目した。哲学的にはヘーゲル主義を「革命の代数学」と理解し、チェシコフスキーAugust Cieszkowski(1814―1894)の「行為の哲学」からフォイエルバハの『キリスト教の本質』に至るヘーゲル左派の歩みを踏襲、大陸合理論とイギリス経験論の総合を目ざして『自然研究書簡』(1844~1845年執筆、1845年刊)を書いた。1847年に出国し、そのまま亡命。1848年の六月事件に際会して近代市民社会の暗黒面を目撃、西欧文明への絶望の書『向う岸から』(1847~1850年執筆)を著し、歴史の西欧的発展の必然性を否定する一方、ロシア独自の発展の可能性を模索した。その結果、ミール(農村共同体)をきたるべき社会主義的社会の礎石として再認識し、ロシアの共同体原理と西欧の個の原理とを結合させた「ロシア社会主義論」を説き、ナロードニキ(人民主義者)に影響を与えた。1853年ロンドンに「自由ロシア出版所」を設立、ロシア国内での禁書の刊行、雑誌『北極星』Полярная Звезда/Polyarnaya Zvezdaや新聞『鐘』Колокол/Kolokol(1857~1867)の発行等に従事、ロシアの反政府運動を助け、他方、西欧の社会主義者・民族主義者とも広く交際し、ロシアと西欧の革命運動の連携を図った。晩年にはポーランドの民族解放運動の評価をめぐり国の内外で孤立し不遇であった。回想記『過去と思索』(1854~1860年代末ころ執筆)は自伝文学の白眉(はくび)と称され、また資料的価値も高い。小説家としての代表作に『誰(だれ)の罪か?』(1841~1846)がある。
[長縄光男 2015年10月20日]
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1812~70
欧米ではヘルツェン(Herzen)という。ロシアの作家,革命思想家。母はドイツ人。貴族地主の息子。モスクワ大学物理学科卒業。2度の流刑をへて西欧派としての筆陣を張ったが,出国後,パリで二月革命を体験,ブルジョワ社会に失望,変革の立場からロシアのミールを再評価し,のちのナロードニキ思想の先駆者となった。大改革期にはロンドンで雑誌『北極星』,新聞『鐘』を発行し国内改革に影響を与えた。自伝的回想『過去と思索』は名高い。
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…この考え方には先進の西欧諸国民に対するロシア人の同等性,むしろ独自の優越性を誇示する自負がこめられており,一部のスラブ派やパン・スラブ主義者たちに受け継がれた。一方,社会主義の立場に立つゲルツェンは,民衆とりわけ農民をナロードとしてとらえ,彼らが保持していた共同体的伝統を基盤にロシアの社会主義化をすすめるべきであると主張した。彼は1848年革命を亡命先で体験し,西欧文明のあり方に絶望した結果,この考えに到達したのである。…
…ナロードニキ主義とは,後進国ロシアが先進資本主義,自由主義的西欧を拒否して,ロシアの共同体的伝統を手がかりとして,これに先進西欧の生み出した社会主義思想を結合することによって,資本主義発展の道を通らないでも,一挙に社会主義に進みうるし,進まねばならないとする思想である。 始祖はゲルツェンである。彼は,1848年革命で味わった西欧文明への深い絶望からこの思想を生み出した。…
※「ゲルツェン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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