クロポトキン(読み)くろぽときん(英語表記)Пётр Алексеевич Кропоткин/Pyotr Alekseevich Kropotkin

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クロポトキン」の意味・わかりやすい解説

クロポトキン
くろぽときん
Пётр Алексеевич Кропоткин/Pyotr Alekseevich Kropotkin
(1842―1921)

ロシア革命家アナキズム無政府主義)の理論家、社会学者、地理学者、生物学者。公爵家柄に生まれ、中央幼年学校を卒業(1862)。士官としてアムール・コサック軍に勤務し、1864年から1866年にかけてロシア地理学協会の北東アジア探検隊に参加した。1867年退役してペテルブルグ大学の物理・数学科に学ぶ。1872年1月ベルギー、ついでスイスを訪れ、この地でアナキズムの指導者バクーニンと知り合い、インターナショナルのバクーニン派に加わった。同年5月ロシアに帰ってニコライ・チャイコフスキーのサークルに加盟し、首都ペテルブルグの労働者の間で宣伝活動を行った。1874年逮捕、投獄されたが、監獄病院から脱出し、国外に逃れ、以後40年以上にわたって亡命生活を送る。

 1879年ジュネーブで新聞『レボルテ』を発行。1881年スイスから追放され、1883年リヨンで禁錮(きんこ)5年の判決を受けたが、フランスの世論の支持で釈放された。こののちイギリスに渡り、ロンドン郊外に住んでアナキズム的共産主義の運動を推進し、『パンの略取』(1892)、『無政府――その哲学理想』(1896)、『相互扶助論進化の一要因』(1902)など多くの著書を著した。これらのなかで彼は、ダーウィンの主張した種内における生存競争の考えに反対し、相互扶助と生産者の自発的な連合に基づいた社会のビジョンを描いた。1917年6月ロシアに帰国したが、十月革命以後のソビエト政権に対しては、そのプロレタリアート独裁の考えに反対し、ボリシェビズムを新しいジャコバン主義として批判した。1921年2月8日モスクワで死去。

[外川継男]

『クロポトキン著、高杉一郎訳『ある革命家の手記』全2冊(岩波文庫)』『クロポトキン著、高杉一郎訳『ロシア文学の理想と現実』全2冊(岩波文庫)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クロポトキン」の意味・わかりやすい解説

クロポトキン
Kropotkin, Pëtr Alekseevich

[生]1842.12.21. モスクワ
[没]1921.2.8. モスクワ近郊,ドミトロフ
ロシアのアナーキスト,地理学者。名門貴族の家に生まれた。軍人となったが 1867年に軍を離れ地理学者となる。 1872年スイス旅行中バクーニン派のアナーキズムに深く影響を受け,チャイコフスキー団に加わり,1874年投獄された。 1876年脱獄,西ヨーロッパに亡命。ロンドンを拠点として,アナーキズム運動を行ない,1917年の二月革命後帰国したが,政治活動と絶縁した。相互扶助の理論と自発的な生産者組合組織を基盤とする無権力社会を構想した。主著『叛逆者の言葉』 (1885) ,『パンの略取』 (1892) ,『相互扶助論』 (1902) ,『フランス大革命 1789~1793』 (1909) 。

クロポトキン
Kropotkin

1920年までロマノフスキーフートル Romanovsky Khutor。ロシア南西部,北カフカス,クラスノダール地方の都市。クラスノダールの東北東約 130kmにあり,クバン川にのぞむ。 19世紀末,ロストフナドヌーとアゼルバイジャンの首都バクーを結ぶ鉄道が通ってから交通の要地として発展。現在クラスノダールとスタブロポリを結ぶ鉄道も通り,住民には鉄道関連企業に働く労働者が多い。工業部門では果実・野菜缶詰,食肉などの製造が盛ん。現市名はロシアのアナーキストで地理学者の P. A.クロポトキンを記念したもの。人口7万 6600 (1991推計) 。

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