日本大百科全書(ニッポニカ) 「バスキア」の意味・わかりやすい解説
バスキア
ばすきあ
Jean-Michel Basquiat
(1960―1988)
アメリカの美術家。ニューヨーク、ブルックリン生まれ。父はハイチ出身、母はブルックリン出身でともにプエルト・リコ系。家庭は比較的裕福で、5歳のころから母に連れられメトロポリタン美術館やMoMA(ニューヨーク近代美術館)を訪れたり、レオナルド・ダ・ビンチの解剖画集を与えられるなど、美術の英才教育を受けて育つ。思春期にはジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリン、チャーリー・パーカー、シュガー・レイ・ロビンソンSugar Ray Robinson(1929―1965)といったミュージシャンやボクサーにも憧れたが、幼いころから親しんだ美術で身を立てることを熱望していた。
1978年、父の理解と資金援助を得て高校を中退し、友人宅を転々とする。とりわけ高校の1年先輩に当たるアル・ディアスAl Diaz(1959― )と親しく交流、共同でSAMO(Same Old Shit)という架空のキャラクターを創作し、ストリートで落書きを繰り返す(ディアスとは後に喧嘩別れしSAMOも消滅)。翌1979年、メトロポリタン美術館のキュレーターであったヘンリー・ゲルツァーラーHenry Geldzahler(1935―1994)、アンディ・ウォーホルらと知り合い(バスキアがこの2人に自作のポストカードを売りつけた有名なエピソードがある)、デビューのきっかけをつかむ。とりわけウォーホルは最大の庇護者となり、以後も密接な関係を保った。1981年、美術家、映像作家のディエゴ・コルテスDiego Cortez(1946― )が主催するグループ展「ニューヨーク/ニュー・ウェーブ」(P. S. 1コンテンポラリー・アート・センター)にイラストとペインティングを約20点出品し、また翌1982年にはニューヨークのアニナ・ノセイ・ギャラリーで初個展を開催。ストリートを題材とした荒々しい筆致の画風は大きな注目を集め、バスキアの名は一躍ニューヨークのアート・シーンに知れわたることになった。
プエルト・リコ系であるバスキアの肌は黒く、また王冠をかぶった黒人のポートレートをしばしば描いていた事実も、彼が自らの民族的出自を強く意識していたことを物語っている。その一方で、彼の作風はサイ・トゥオンブリCy Twombly(1928―2011)らのネオ・エクスプレッショニズムやキース・ヘリングらのグラフィティ・アートといった当時のアート・シーンの最新モードやサブカルチャーの成果を貪欲に摂取して形成されたものであり、黒人芸術を語る際に決まってもち出されていたプリミティビズムではおよそ説明できない。典型的な白人主導の世界であるニューヨークのアート・シーンが黒人であるバスキアを受け入れたのにはある種の搾取構造が指摘できるし、またバスキア自身にも、黒人としてのアイデンティティと、アート・シーンに迎合しスターになりたいという欲望との相克があった。
1988年、急性薬物中毒のため27歳の若さで死去。アート・シーンの最前線で虚像を演じながら、自己のアイデンティティとの葛藤に苦悩し、才能の枯渇におびえながら薬物に溺れていった生涯は、一足先にこの世を去った庇護者のウォーホルのそれと酷似していた。太く短い、浮き沈みの激しい生涯を反映するかのようにその評価も毀誉褒貶(きよほうへん)が激しいが、1992年のホイットニー・アメリカ美術館での回顧展や、1996年にネオ・エクスプレッショニズムの画家ジュリアン・シュナーベルが制作した映画『バスキア』は、バスキアが1980年代の最重要作家であることを伝えるものであった。
[暮沢剛巳]
『「特集バスキア」(『美術手帖』1997年1月号・美術出版社)』▽『「BASQUIAT」(映画パンフレット。1997・ヘラルドエンタープライズ)』