ポルトガルの航海者。リズボア(リスボン)出身。父祖以来エンリケ航海王子に仕え、祖父ジョアンはバハドール岬まで、父ディニスはベルデ岬まで到達。バルトロメウは、伝説的なキリスト教国プレスター・ジョンの国とインディアスへの道を求めて、1487年8月、王命により3隻の小型船でアフリカ探検の航海に出た。これまでディオゴ・カオンの到達した極限を越えて、サンタ・ヘレナ(セント・ヘレナ)湾に達し、暴風のため13日間漂流、海岸を離れたので、南東から東に転進したが、陸地を見ず、さらに北に進路を転じて、1488年2月3日フレッシュ湾(アングラ・ドス・バケイロス)に到達した。知らぬまにアフリカ南端を東に回航していたことになる。帰途、南西端に立ち寄り、風浪高く、カーボ・トルメントソCabo Tortmentoso(嵐(あらし)岬)と命名して帰航の途につき、同年12月リズボアに帰着。国王ジョアン2世は、この岬の名をカーボ・ダ・ボア・エスペランサCabo da Bõa Esperança(喜望峰)と変更。ついにアフリカ南端を東へ回航する航路が発見され、のちバスコ・ダ・ガマのインド航路発見の端を開くことになった。
その後、ガマがインドへの航海の命を受けると、彼もその準備に参画し、始めはその航海にも加わり、1497年7月リズボアを出発した。のちポルトガルのインド経営にあたって、カブラルの指揮する大船団(13隻、乗員1200人)に彼は船長として加わり、弟ディオゴ・ディアスらとともに1500年3月8日リズボアを出発。途中たび重なる暴風雨に船団は損傷離散したが、4月22日偶然にブラジルを発見、1か月後インドに向かったが、南大西洋で暴風雨にあい、船4隻を失い、同時にディアスもここで海難死した。
[飯塚一郎]
『山中謙二著『地理発見時代史』(1969・吉川弘文館)』
メキシコの将軍、独裁者、大統領(在任1876~80、1884~1911)。同国南部のオアハカ州出身のメスティソ(混血)で、幼くして父を失い種々の労働を体験したのち、対米戦争(1846~48)を機に軍人となった。1854年に始まる自由主義革命(レフォルマ)を支持し、とくにフアレス大統領の指導する内戦(1857~60)および対仏戦争(1862~67)で、自由派の軍人として活躍した。戦後フアレスら文治派と対立、フアレス死後の1876年、旧革命軍や、教会財産没収政策などによって成長してきた新地主層などの支持を背景に、武力で権力を握り、1911年メキシコ革命によって追われるまで長期間独裁政治を続けた。パリへ亡命、同地で没す。大地主階級を保護し、鉄道、鉱山業を中心に外国資本を導入、メキシコ経済の急速な発展に成功したが、反面、政治的自由は許されず民衆運動は弾圧され、ほとんどの農民は土地を失い貧富の差は拡大し、メキシコ経済の外国資本への従属化は決定的となった。
[野田 隆]
メキシコの政治家,大統領。在任1877-80年,1884-1911年。南部オアハカ州で生まれ,法律を学ぶ。米墨戦争(1846-48)で国防軍に参加,1854年の自由主義派によるアユトラ革命に加わり,のち対フランス干渉戦争で活躍して国民的英雄となった。67年と71年の大統領選挙に立候補したが,2度とも長老政治家ベニート・フアレスに敗れた。76年武力によって実権を掌握し,のち35年間にわたって事実上独裁体制をしいた。独立(1821)後初めて達成されたディアス長期安定政権の下で,メキシコは外国資本の導入と特定の民族資本家および地主階級の優遇政策をとり,目ざましい経済成長と近代化をなしとげた。しかし急激な近代化は激しい貧富の格差と不公平を生んだ。その結果,政治の民主化を求める声が高まり,やがてマデロによる再選反対運動が起こるとともに,全国各地で土地を求める農民運動が活発化した。1910年11月全国一斉蜂起を呼びかけたマデロの〈サン・ルイス・ポトシ計画〉によって革命が勃発し,ディアスは翌11年5月国外へ逃れ,フランスで病死した。
執筆者:国本 伊代
ポルトガルの航海者。ベルデ岬(カボ・ベルデ)の発見者ディニス・ディアスDinís Diasの子孫で,1486年海路プレスター・ジョンの国(エチオピア。プレスター・ジョン伝説)に到達することを命ぜられ,アフリカ西海岸に沿って南下し,その南端を回ったが,乗組員の反抗にあって引き返した。彼はアフリカ大陸最南端の岬を〈嵐の岬〉と命名したが,のち〈喜望峰〉と改められた。1500年ペドロ・アルバレス,P.A.カブラルの船隊に参加してインドに向かい,喜望峰付近で難破したが,インドに到着したのち,同地で死去した。
執筆者:生田 滋
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1830~1915
メキシコの大統領(在任1877~80,84~1911)。1876年クーデタで政権を獲得し,以後35年間にわたって独裁者として君臨した。強権政治により社会的安定を確保して積極的に外資を導入し,鉱山開発,鉄道建設などを進め,また大地主階級を保護して,第一次産品の国際市場進出を促進した。しかしこの経済的発展は,農民層の貧困化を生み,都会住民の貧富の格差を増大させて強い社会的・政治的反発が起こり,1911年メキシコ革命が始まって,フランスに亡命した。
?~1500
ポルトガルの航海者。1487~88年ポルトガル王ジョアン2世の命を受け,アフリカ西岸沿いに航海し,初めて南端迂回に成功,ジョアン2世はその岬を喜望峰と命名した。1500年,カブラル率いる第2次インド航海に参加し,途中マダガスカル島付近で遭難して死んだ。
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…やがてポルトガルはアフリカ全体の沿岸を調べること,そして香料の国インドへの道を開くことに熱意をもった。88年B.ディアスは初めてアフリカ南端をまわってインド洋の入口まで達した。岬の嵐の激しさを示すためディアスは〈嵐の岬〉という名称を用意したが,国王は〈よき希望の岬(喜望峰)〉と命名した。…
…南からの風波を避けるのに好適な港として,また幾つかの美しい海水浴場のある保養地として知られる。1488年にバルトロメウ・ディアスが初めて立ち寄り,97年にはバスコ・ダ・ガマが寄港,1500年にはペドロ・ダタイデが嵐を避けて上陸した。このように南部アフリカにおいてポルトガル人航海者が最初に上陸した港として,歴史的に重要な町である。…
…1810年に始まる独立運動は,本国スペインがナポレオンによって侵略されスペイン王室の権威が失墜したことを契機として始まったが,19世紀初頭のメキシコにはすでに独立への気運が高まりつつあったのである。
[近代]
独立以降の今日に至る時代は,(1)独立後1860年代まで続く混乱の時代,(2)政治の安定と経済の繁栄を達成したディアス独裁時代(1877‐1911),(3)1910年に勃発したメキシコ革命を起点とする現代,に大きく分けられる。 1810年9月16日の〈ドローレスの叫び〉で始まった独立運動は,独立の父イダルゴ神父によって率いられ,イダルゴが処刑されたのちモレロスによって引き継がれて,13年チルパンシンゴの議会で独立宣言がなされた。…
…半植民地的社会経済構造の変革を目ざして,20世紀前半にメキシコで起こった民族主義的社会革命。狭義には35年間に及んだディアス独裁体制(1877‐1911)の打倒を目ざした1910年11月20日のマデロによる武装蜂起に始まり,革命憲法が制定された17年に終結したとされる。より広義には民主的政治体制の確立,農地改革の実施など革命目標が実現されたカルデナス政権(1934‐40)の終了をもって革命は終結したとされる。…
…スペイン国王はコロンブス,コルテス,ピサロ,その他代表的なコンキスタドールたちに全面的な政治権力をゆだねたので,その結果,彼らは征服地においては君主のような存在となった。しかし,いったん征服地の重要性が明らかになると,王室はコンキスタドールの権力の削減に努め,中央集権化を図るためにスペインで採用した諸制度を同じ目的のもとに新たに発見・征服したインディアスへ移植した。16世紀半ばごろには,インディアスの政治組織は決定的な形を整え,それはわずかな変化を受けつつも18世紀後半のブルボン王朝による改革の時期まで存続した。…
※「ディアス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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