日本大百科全書(ニッポニカ) 「ディアス)」の意味・わかりやすい解説
ディアス(Bartholomeu Diaz (Dias))
でぃあす
Bartholomeu Diaz (Dias)
(1450?―1500)
ポルトガルの航海者。リズボア(リスボン)出身。父祖以来エンリケ航海王子に仕え、祖父ジョアンはバハドール岬まで、父ディニスはベルデ岬まで到達。バルトロメウは、伝説的なキリスト教国プレスター・ジョンの国とインディアスへの道を求めて、1487年8月、王命により3隻の小型船でアフリカ探検の航海に出た。これまでディオゴ・カオンの到達した極限を越えて、サンタ・ヘレナ(セント・ヘレナ)湾に達し、暴風のため13日間漂流、海岸を離れたので、南東から東に転進したが、陸地を見ず、さらに北に進路を転じて、1488年2月3日フレッシュ湾(アングラ・ドス・バケイロス)に到達した。知らぬまにアフリカ南端を東に回航していたことになる。帰途、南西端に立ち寄り、風浪高く、カーボ・トルメントソCabo Tortmentoso(嵐(あらし)岬)と命名して帰航の途につき、同年12月リズボアに帰着。国王ジョアン2世は、この岬の名をカーボ・ダ・ボア・エスペランサCabo da Bõa Esperança(喜望峰)と変更。ついにアフリカ南端を東へ回航する航路が発見され、のちバスコ・ダ・ガマのインド航路発見の端を開くことになった。
その後、ガマがインドへの航海の命を受けると、彼もその準備に参画し、始めはその航海にも加わり、1497年7月リズボアを出発した。のちポルトガルのインド経営にあたって、カブラルの指揮する大船団(13隻、乗員1200人)に彼は船長として加わり、弟ディオゴ・ディアスらとともに1500年3月8日リズボアを出発。途中たび重なる暴風雨に船団は損傷離散したが、4月22日偶然にブラジルを発見、1か月後インドに向かったが、南大西洋で暴風雨にあい、船4隻を失い、同時にディアスもここで海難死した。
[飯塚一郎]
『山中謙二著『地理発見時代史』(1969・吉川弘文館)』
ディアス(Porfirio Díaz)
でぃあす
Porfirio Díaz
(1830―1915)
メキシコの将軍、独裁者、大統領(在任1876~80、1884~1911)。同国南部のオアハカ州出身のメスティソ(混血)で、幼くして父を失い種々の労働を体験したのち、対米戦争(1846~48)を機に軍人となった。1854年に始まる自由主義革命(レフォルマ)を支持し、とくにフアレス大統領の指導する内戦(1857~60)および対仏戦争(1862~67)で、自由派の軍人として活躍した。戦後フアレスら文治派と対立、フアレス死後の1876年、旧革命軍や、教会財産没収政策などによって成長してきた新地主層などの支持を背景に、武力で権力を握り、1911年メキシコ革命によって追われるまで長期間独裁政治を続けた。パリへ亡命、同地で没す。大地主階級を保護し、鉄道、鉱山業を中心に外国資本を導入、メキシコ経済の急速な発展に成功したが、反面、政治的自由は許されず民衆運動は弾圧され、ほとんどの農民は土地を失い貧富の差は拡大し、メキシコ経済の外国資本への従属化は決定的となった。
[野田 隆]