プロコピウス(読み)ぷろこぴうす

改訂新版 世界大百科事典 「プロコピウス」の意味・わかりやすい解説

プロコピウス(カエサレアの)
Procopius
生没年:500ころ-?

ローマ帝国歴史家。ギリシア名プロコピオスProkopios。パレスティナのカエサレアCaesareaに生まれ,修辞学と法学を修めたのち,527年将軍ベリサリオスの法律顧問となってペルシア戦役(527-531),アフリカ遠征(533-536),イタリア遠征(536-540)に同行。542年までにはコンスタンティノープルへ戻り,おそらくは官職経歴を続けながら著作活動を行う。晩年没年については不詳。主著戦史(歴史)》8巻は553年までの東ローマ帝国の戦役を伝えるもので,ベリサリオスへの肩入れは否めないにせよ,プロコピウスは客観的記述を心がけており,当時の軍事・外交史を知るうえで第一級の史料である。これに対し,彼の作とされる《秘史》(550ころ)はユスティニアヌス帝に対する悪意に満ちた攻撃文で,事実関係を知るうえでは信頼できないが,当時の宮廷社会をかいま見せて興味深い。ユスティニアヌス帝の命で553-555年に著された《建築について》は,同帝の建築面での業績を地域別に整理して伝え,当時の地勢や建築術などを知るうえで貴重である。
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プロコピウス
Procopius
生没年:326-366

ローマ帝国の奪帝。在位365-366年。キリキア出身でユリアヌス帝のおそらく母方の血縁者。同帝のペルシア戦役の際に軍司令官となる。同帝死後は一時カッパドキアに隠遁したのちコンスタンティノープルに潜んでいたが,新帝ウァレンス不在の間に元老院議員,宮廷役人や軍隊の一部を味方につけ,365年9月同市の競馬場において皇帝と宣せられた。ゴートからの支援部隊も得てトラキア,ビテュニアで勝利を収めたが,自軍の将軍の裏切りにあい,366年5月フリュギアの都市ナコレイア付近でウァレンス帝に敗れ,処刑された。
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百科事典マイペディア 「プロコピウス」の意味・わかりやすい解説

プロコピウス

6世紀のビザンティン帝国の歴史家。ギリシア名プロコピオス。パレスティナ生れ。527年ベリサリオスの補佐官となり,そのペルシア,アフリカ,イタリアの征戦を記した《戦史》,皇帝ユスティニアヌス時代の裏面史たる《秘史》などを著した。これらはビザンティン史の最重要史料。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「プロコピウス」の意味・わかりやすい解説

プロコピウス
ぷろこぴうす

プロコピオス

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世界大百科事典(旧版)内のプロコピウスの言及

【スラブ人】より

…このウェネディは西スラブ系種族の総称とみてよいであろう。6世紀中葉からはスラブ人は,スクラベノイSklabēnoi(スクラウェニSclaveni)という名称でビザンティンの史家プロコピウスやゴート人の史家ヨルダネスの著作にしばしば現れるようになる。 言語学的資料から考えられる古代スラブ人の居住地は,ビスワ川流域を中心として西はエルベ川から東はドニエストル川流域に至るヨーロッパの東部領域である。…

※「プロコピウス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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