ビザンティン帝国の皇帝ユスティニアヌス1世の片腕となった名将。皇后テオドラの親任厚いアントニナが妻。プロコピウスの《戦記》で戦功をたたえられる。対ペルシア戦の指揮のほか,〈ニカの反乱〉(532)で皇帝の危急を救い,とくにユスティニアヌス1世の西方再征服ではアフリカのバンダル族(533-534),イタリアの東ゴート族(535-540)に対する遠征軍を指揮,いったん召喚された後ナルセスNarsēs(478ころ-573)と交代するまで対ゴート戦を続行(544-548)した。
13~14世紀のパライオロゴス朝時代に,彼を主人公として,その生涯とは無関係にビザンティン民衆文学作品《ベリサリオスの歌》(15音節詩)が成立。民衆の希望を担い,皇帝から託された困難な使命(コンスタンティノープル城壁建設,イギリス遠征,息子による侵入ペルシア軍の撃退)を落度なく果たしながら,そのつど,ねたみにそそのかされた貴族からの讒言(ざんげん)で皇帝から不興を買って,ついに,片手に物乞い皿,片手に杖の盲人となった主人公のイメージは,19世紀にもなお作曲家,画家,詩人の創作欲をかきたてた。
執筆者:渡辺 金一
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ビザンティン帝国ユスティニアヌス1世麾下(きか)の名将。その生涯は彼の顧問官である歴史家プロコピオスの作品に詳しい。メソポタミアの軍司令官(527)を皮切りに、対ペルシア戦に二度(530~531、541~543)指揮をとった。皇帝の旧ローマ西方領の回復という政治目標のためアフリカに転戦(533~534、544~548)、そこからイタリアに赴き(535~540)、東ゴート人を破った(544~547)。その間首都の市民による「ニカの乱」を鎮圧(532)。548年イタリアから帰り引退。その後、皇帝暗殺事件に関係ありとされ、一時皇帝の不興を買うがすぐに嫌疑が晴れる。死後この英雄をしのんで多くの英雄詩や小説が書かれた。
[和田 廣]
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…その結果,政権を握ったのがゴート人の将軍ウィティギスVitigisであった。だが名将ベリサリオスの率いるビザンティン軍は南部から上陸し,この年の暮れにローマに入り,イタリアを帝国に再び編入した。これによって東ゴート王国は解体する。…
※「ベリサリオス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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