ユスティニアヌス1世(英語表記)Justinianus Ⅰ, Flavius Petrus Sabbatis

改訂新版 世界大百科事典 「ユスティニアヌス1世」の意味・わかりやすい解説

ユスティニアヌス[1世]
Justinianus Ⅰ, Flavius Petrus Sabbatis
生没年:483-565

ビザンティン帝国の皇帝。在位527-565年。マケドニアの農家出身。首都の近衛部隊長の叔父で後の皇帝ユスティノス1世の養子となる。叔父がアナスタシオス帝の没後皇帝となるや(518),執政官(521),陸軍元帥(525)として政務を助け,共同皇帝に昇進し(527),同年叔父の死後即位,ユスティニアヌス朝(527-602)を興す。ローマ帝国の復興を政治目標に掲げ,北アフリカのバンダル族(534),イタリアの東ゴート族(552),イベリア半島の西ゴート族(554)を破り,これらの地を帝国領とした。宿敵ペルシアとの争いは一進一退で,2度にわたる和平条約(〈永遠の和平条約〉532,〈50年の和平条約〉562)の実効は薄かった。皇帝が東のペルシアと西の旧ローマ領の奪回に力を注ぐ間に,バルカン半島ではスラブ,アバール族の南下が始まっていた。宗教的には同皇帝は正統信仰の確立を目ざし,異端の牙城といわれたアテナイアカデメイアを閉鎖し(529),首都で第5回の公会議を開催した(553)。そこではネストリウス派の疑いがあるとされた東方の3主教の著作を異端とし,いわゆる〈三章問題〉に決着をつけた。その結果エジプトのコプト教会,アルメニア教会,シリアのヤコブ派教会が東方教会として独立していった。内政的には長期の戦役と重税に対する市民の不満が爆発し,ニカの乱(532)が起きたりもしたが,皇妃テオドラの強力な諫言で乗り切り,以後は安定政権を維持できた。これを背景にビザンティン文芸史上の一大黄金期が生まれた。ハギア・ソフィアの再建,歴史家プロコピウスやマララスに代表される歴史文学の興隆,偽ディオニュシウス文書や柱頭行者シメオンに代表される神学の発展がそれである。法律では法学者トリボニアヌスにより編纂された《ローマ法大全》(529-534)がある。この全集は,後の西欧の法体系の基礎をもなした。同帝は中央アジアから養蚕術を導入し,絹産業を興し,これを国内の基幹産業の一つに育てた。
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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ユスティニアヌス1世」の解説

ユスティニアヌス1世(ユスティニアヌスいっせい)
Justinianus Ⅰ

482頃~565(在位527~565)

皇帝ユスティヌス1世の甥。テオドラと結婚して帝位につき,有能な人材を得て強力な国家の実現を図った。ニカの反乱を鎮圧して専制権力を確立し,北アフリカ,イタリア,イベリア半島西南部を征服したが,東方国境やドナウ川沿岸地帯では現状維持と防衛的政策をとった。『ローマ法大全』を編纂し,国庫増収を図って税制改革を行い,ペルシアを経由しない紅海貿易路を開発し,絹の生産技術を入手した。帝国を一つの信仰によって統一することを願って神学的論争に関与し,また活発に建築活動を行い,たくさんの聖堂のほかに,築城などの軍事的施設,橋梁,水道橋,貯水池,地下貯水池,道路,倉庫,公共浴場,福祉施設その他の公共的施設などを建設した。

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367日誕生日大事典 「ユスティニアヌス1世」の解説

ユスティニアヌス1世

生年月日:482年5月11日
ビザンチン皇帝(在位527〜65)
565年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のユスティニアヌス1世の言及

【鉄砲】より


[西洋]
 銃砲所持,広い意味での武器携帯は,古代社会から今日に至るまでさまざまの規制の対象となっている。古代のローマやアテナイでは市中での武器携帯は禁止され,東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は私人がかってに武器を製造し取引することを厳禁した。西ローマ帝国を復興したカール大帝も武器の常時携帯を禁止したが,中世を通じて多くの王令や勅令が公布されたことは,この禁止規定が十分に遵守されなかったことを物語っている。…

【売春】より

…キリスト教徒の皇帝が出現する4世紀以降には売春禁止令が出された。とくに6世紀初めのユスティニアヌスの法令は有名で,それは売春婦自体よりも仲介業者,娼家経営者の規制を目ざすものであった。彼はまた,売春婦の救護,更生にも熱心で,これにはもと売春婦であったという帝妃テオドラの意向が影響したとされる。…

【ビザンティン帝国】より


[地理的条件と民族・言語分布]
 ビザンティン帝国の支配が現実に及んだ地域は,その時々の国際政治関係を反映して,時代とともに大きく変わったが(後述),領土が縮小した最後の数世紀を除けば,地理的自然条件を異にしたさまざまな部分から構成されていたことが大きな特徴としてあげられる。 テオドシウス1世死後のローマ帝国分治の際の東半分領土は,6世紀前半のユスティニアヌス1世の再征服の結果,ダルマティア北部からイタリア半島,シチリア,サルディニア,コルシカ,バレアレス諸島,アフリカ北岸,そして一時的にはイベリア半島南東部にまで及んだ。続くランゴバルド族の南下にもかかわらず,イタリア南部は,ノルマン人が進出する11世紀後半までビザンティン帝国支配下にとどまった。…

【ユダヤ人】より

…しかし全体としては,イスラム世界のユダヤ教徒はその信仰を守りつつ,経済・文化の重要な担い手あるいは伝播者として活躍し,イスラム社会の発展に寄与することができた。
[ヨーロッパ・キリスト教社会とユダヤ教徒]
 キリスト教世界のなかでもビザンティン帝国では,テオドシウス2世(在位408‐450)およびユスティニアヌス1世(在位527‐565)以来,ユダヤ教徒はいっさいの官職から排除され,キリスト教徒を農奴として用いることを禁じられ,事実上,農耕に従事することが不可能となった。さらにヘラクレイオス(在位610‐641)は彼らに対しキリスト教への改宗を強制するにいたった。…

【養蚕】より

…【吉武 成美】
[欧米諸国への伝播]
 中国で始まった養蚕業がヨーロッパへ伝播したのは6世紀といわれる。ビザンティン帝国の歴史家プロコピウスによると,時の皇帝ユスティニアヌス1世が,ペルシアによって供給を阻まれた絹を確保すべく,552年2人のネストリウス派の修道士をアジアに派遣,彼らが蚕卵を竹筒の中に隠し持ち帰ったのが,養蚕業西伝の最初であるとされる。それはギリシア,シリア,小アジアなどに広まり,7世紀前半のアラブによるペルシア征服を機に,絹生産の西方伝播がさらに加速した。…

※「ユスティニアヌス1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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