ペドロ3世(その他表記)Pedro Ⅲ

改訂新版 世界大百科事典 「ペドロ3世」の意味・わかりやすい解説

ペドロ[3世]
Pedro Ⅲ
生没年:1240-85

アラゴン連合王国国王。在位1276-85年。ハイメ1世の子。シチリア征服の功績から〈大王〉とあだ名される。ペドロ3世即位時のアラゴン連合王国は外に向けての新たな発展の可能性を模索していた。ミュレーの敗戦(1213)で南フランス進出の道が閉ざされ,隣国カスティリャとのアルミスラ条約(1244)によってバレンシア以南への版図拡大も阻まれて,残るのは地中海だけだった。

 1282年,〈シチリアの晩鐘〉で知られる蜂起で,従来のアンジュー家の支配を拒否したシチリア島民は,ペドロ3世に島の統治を要請した。王はただちに出兵して,パレルモに入城した。これによってアラゴン王家は地中海進出の糸口をつかむ一方,西地中海での覇権をめぐって以後フランス,ジェノバ,ときにはローマ教皇庁と深刻な対立関係に入った。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ペドロ3世」の意味・わかりやすい解説

ペドロ3世(大王)
ペドロさんせい[だいおう]
Pedro III, el Grande

[生]1239?
[没]1285. ビラフランカデルパナデス
アラゴン王 (在位 1276~85) ,ピエトロ1世としてシチリア王 (在位 82~85) 。アラゴンのシチリア支配を最初に行なった王として知られる。アラゴン王ハイメ1世 (征服王)の子。シチリア王マンフレートの娘コンスタンスと結婚。アンジュー家のシャルル1世の支配に対するパレルモ住民の暴動鎮圧 (→シチリアの夕べの祈り ) ,シチリア王となった。これ以後事実上南イタリアはアンジュー家の支配するナポリ王国とアラゴンの支配するシチリア王国に分割された。次いでバレンシアにおけるムーア人の反乱を鎮圧,カタルニャ貴族を弾圧して内政問題を解決した。

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世界大百科事典(旧版)内のペドロ3世の言及

【シチリア王国】より

…シャルル・ダンジューの支配に反感をもったシチリア島民は〈シチリアの晩鐘〉の乱を起こし,アンジュー勢力を全島から駆逐した(1282)。シチリアはアラゴンの支配下に入り,アラゴン王ペドロ3世Pedro IIIがシチリア王を称した。その結果,二つのシチリア王国が出現することになった。…

【シチリア王国】より

…シャルル・ダンジューの支配に反感をもったシチリア島民は〈シチリアの晩鐘〉の乱を起こし,アンジュー勢力を全島から駆逐した(1282)。シチリアはアラゴンの支配下に入り,アラゴン王ペドロ3世Pedro IIIがシチリア王を称した。その結果,二つのシチリア王国が出現することになった。…

【バルセロナ】より

…また,同国王は旧市壁の外へ膨張した市街地を防衛する目的で新たな市壁を築いている。続くペドロ3世は前述した慣習法典に基づく私法を体系化し,とくに王権に対するバルセロナの自治を承認した条項は,他の諸都市の法制に影響を及ぼした。またペドロ3世の時代には,シチリア島の征服(1282)とナポリ王国併合への足場固めが行われ,アラゴン連合王国の地中海制覇が開始されるとともに,地中海が〈カタルニャの海〉と化していく契機となった。…

※「ペドロ3世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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