ヨーロッパ、アジアおよびアフリカの三大陸に囲まれた世界最大の内海。ヨーロッパ地中海ともいう。広い意味では黒海を含む。この場合、面積は約300万平方キロメートル、東西の長さ約3860キロメートル、南北の平均の幅は約700キロメートルである。西はジブラルタル海峡によって大西洋に通じ、南東部はスエズ運河によって紅海に通じている。黒海と狭義の地中海とでは海況、気候などの自然的条件や周辺民族の歴史的、文化的条件に差異がみられるので、ここでは主として狭義の地中海を取り上げ、黒海については別項を設ける。なお、特定の地名とは別に、大洋の縁辺にあって、いくつかの大陸に囲まれた小さな海を地中海mediterranean seaという。
[竹内啓一]
狭義の地中海は、イタリア半島部およびシチリア島によって二つの部分、すなわち東地中海と西地中海とに分けられる。東地中海は、アドリア海、イオニア海、ガベス湾、シルテ湾、クレタ(カンディア)海、エーゲ海、レバント海などからなっている。西地中海には、バレアレス海、ティレニア海、リグリア海などが含まれる。地質学的にみると、黒海を含む現在の地中海は、石炭紀から第三紀初めまで存在していた広大な海域が第三紀造山運動によって狭められたものである。したがって広義の地中海は、主として第三紀造山運動によって形づくられた山系によって縁どられ、くぎられていることになる。それが不安定な地塊であることは、地中海地域に地震が多く、火山活動が盛んなことからもわかる。西アジア沿岸およびアフリカ沿岸に比して複雑なヨーロッパ沿岸の地形は、第三紀以降のより複雑な地殻運動を反映している。
西地中海にはコルシカ島、サルデーニャ島、シチリア島の三つの大きな島以外には、バレアレス諸島、トスカナ諸島、リパリ諸島などがある。東地中海にはクレタ、キプロスの二つの大きな島以外に、キクラデス諸島、ドデカネス諸島をはじめ、数からいえば西地中海よりはるかに多くの小島が存在する。
地中海の海底地形をみると、構造的な海盆として、ヘラス舟状海盆、イオニア海盆、ティレニア海盆、アルジェリア海盆があるが、もっとも深いのはイオニア海盆とヘラス舟状海盆で、いずれも深度は4000メートルを超える。流入する河川としては、最大のものがナイル川で、東地中海に広大なナイル海底扇状地を形づくっている。広大な地向斜をなすアドリア海の海底には、旧ポー川の複状扇状地が、その旧水路とともに確認される。
[竹内啓一]
ヨーロッパとアフリカとアジアとに囲まれた地中海に、気候学でしばしば用いられる「地中海式気候」という用語の起源があることをみてもわかるように、地中海地域の大部分が、夏乾燥し、降水の大部分が秋から春の間にもたらされ、かつ年間の降水量が、大陸西岸気候やモンスーン気候のもとにおけるよりもずっと少ない。たとえばローマの平均気温は7月23.9℃、1月が8.4℃、降水量は7月が8.5ミリメートル、11月が93.3ミリメートルである。このことは、地中海地域の植生、地形などの自然環境を考える場合に重要な意味をもつ。沿岸部および河川の流域を除けば、夏の乾燥のために一年生植物の植生は貧困で、作物に関しても、ブドウ、オリーブやコルクガシなどの樹木農業のほかは、夏に非灌漑(かんがい)耕地で栽培される作物はトマトなどに限られ、その種類が非常に少ない。他方、地中海地域独自の集約的農業として、地中海式園芸農業と樹木農業とがある。樹木作物のなかで、とくにオリーブは、その分布がいわゆる地中海式気候の範囲と非常によく一致している。
一般に地中海性気候とよばれているが、広大な地中海周辺の自然にはかなり局地性がある。まず高度の影響で、アトラス山脈、シエラ・ネバダ山脈、エトナ火山、中部アペニン山脈などの高山部には氷河や雪渓さえみられる。このような山地は、移牧民にとってしばしば夏の放牧地になっている。次に大きいのは南北の差であって、地形学的には地中海地域に属していても、バルカン半島の大部分と北イタリアのパダナ(ポー川流域)平野は、冬にはヨーロッパ内陸部と同様の寒冷な気候の下に入る。とくに、ヨーロッパ内陸部に高気圧、西地中海に低気圧が位置するときには、アドリア海沿岸のボラ、ローヌ川流域のミストラルのような冷たい局地風が吹く。また、地中海地域の南部は、北部に比べて一般に気温は高く、乾燥の度合いも甚だしい。地中海を低気圧が通過するとき、サハラ砂漠から吹き出してくる熱風はシロッコとよばれ、北イタリアにまでサハラの砂塵(さじん)を運んでくることもある。
[竹内啓一]
狭義の地中海の海面水温は、夏季には南部や東部の湾域で27~28℃に達するが、大部分は21~25℃である。冬季にはアドリア海北部で8℃ぐらいまで下がるが、エジプト、シリア沖では16℃より低下しない。中層・深層での水温が比較的高いのが、地中海水塊の顕著な性質である。海面からの蒸発が盛んで、この量が降水と河川からの流入の合計量より多いため、地中海の塩分は大西洋より高く、ジブラルタル海峡付近で濃度36.5psu、東部のレバント海で39psuである。
ジブラルタル海峡の上層では、温度13℃以上で塩分約36psuの大西洋水が地中海に流入し、下層では温度13℃ぐらいで濃度37psu以上の高塩分地中海水が大西洋に流出して、大西洋深層水に多量の高塩分水を供給している。
海流は表層流、中層流ともおおむね反時計回りの環流である。透明度が高く40~50メートルで、レバント海では60メートルに達することもある。水色は中央部でⅠ、エーゲ海でⅡと高く、明るい藍(あい)色である。潮差は陸地に囲まれているので各地とも小さいが、アフリカ沿岸では2メートルに達するところもある。
[半澤正男・高野健三]
山がちの地形によって分断され、局地的な単位で孤立していることもあって、地中海地域の社会にとって、地中海そのものが意味をもつのは限られた部分にすぎない。たとえば漁業であるが、確かに水産資源の種類は多いが、地中海地域における漁獲高は北海などに比してはるかに少なく、沿岸民や都市の上流階級は伝統的に魚もかなり消費していたが、地中海地域全体としてみれば、動物タンパク質源はヒツジ、ヤギなどの牧畜生産物である。海上交通による交易によって繁栄したのも、ベネチア、ジェノバ、バルセロナなどの都市に限られていた。地中海が交通路として世界史において重要な意味をもったのは、古典古代、中世から16世紀までの東西地中海間の交易、それから、スエズ運河開通以降の時期であろう。地中海の多数の島にとって、海はむしろ隔絶性をもたらすものであったが、20世紀の観光業の発達によって、これらの島々は観光資源として新しい脚光を浴びるようになっている。
近代工業文明が北海文明とさえいわれるように、近代の集約的農業はまず北西ヨーロッパにおいて発達し、産業革命後、その経済力によって世界を支配したのも、北海を囲む諸国であった。近代、現代における地中海地域は、北西ヨーロッパに比して相対的に後進地域にとどまることになった。イタリア、スペインが産業革命を経験したのは19世紀末から20世紀にかけてのことであり、北アフリカ、西アジアの多くの地域は、ヨーロッパ列強の植民地化の歴史を経験した。農村にはごく最近まで、あるいは現在においても、前近代的な生産関係に由来する社会関係が残っている。多くの地中海諸国は、住民の所得水準の低さ、したがって滞在費の安さゆえに、先進工業化諸国から多数の観光客が訪れ、同時にこれら地中海諸国は北西ヨーロッパ諸国に多数の出稼ぎ労働者を送り出し、観光収入と出稼ぎ収入はこれら諸国の国際収支において重要な役割を演じている。
[竹内啓一]
地中海における歴史的重要性は、とくに古代のギリシア・ローマ時代において顕著である。
[弓削 達]
地中海地方の最古の文明は、エーゲ文明と総称される。そのうち最初に栄えたのはクレタ文明である。クレタ人は、地中海の先住民(地中海民族とよばれることが多い)とリビア人やオリエント系の人々との混血とする説が有力であり、クレタ島を中心として青銅器文明をつくりだし、紀元前20~前15世紀にそれはもっとも栄えた。クレタ島の中心クノッソスには、上下水道、浴室などの高度な設備をもった宮殿遺跡が残っており、その壁画には、運動の描写に優れた海洋的な芸術が開花している。彼らの文字が未解読のため社会組織などはよくわからない。しかし、王は祭司王であったと考えられ、クレタ島各地に宮殿を構え、東地中海の海上交易を掌握していたと考えられる。彼らの絵文字はエジプトに由来するものとみられ、その文化にもオリエントの影響が強い。
前二千年紀初め、インド・ヨーロッパ語族に属するギリシア人の移動の波が南下し、前1900年ごろギリシア本土に達し、前1600年ごろから前1200年ごろにわたって大小の王国を建てた。クレタ文明の成果を受け継いだこの文明をミケーネ文明とよぶ。これらのギリシア人は前1500年ごろクレタの王権を倒しそこにも定住した。前12世紀ごろギリシア人の第二波としてドーリス人が移動し、ペロポネソス半島南部やクレタ島、小アジア南西部に定住した。同じころ、「海の民」とよばれる雑多な諸民族からなる一団がトラキア方面から南下し、東地中海沿岸各地を攻撃し破壊した。この混乱のなかでミケーネ文明の諸王国は崩壊し、ギリシア系諸民族はギリシア本土やエーゲ海の島々、小アジアなどに広がって定住した。
[弓削 達]
前1000年ごろ同じインド・ヨーロッパ語族の諸民族がイタリア半島にも南下、定住し、彼らのなかからテベレ川の河口に定住した人々の建てたローマが数百年の間にイタリア半島に勢力を伸ばした。ギリシア人もローマ人もやがて都市国家(ギリシア人はこれを「ポリス」とよんだ)を形成し、ギリシア人は西地中海に至るまで沿岸各地に植民活動を行い、アテネを中心に栄えたギリシア文化とポリスは各地に広まった。しかし、ギリシア人のポリスは、ポリス相互の対立抗争が激しく、前5世紀初めのペルシアとの戦争の一時期を除いて一つにまとまることができなかった。そして、ポリスを形成しないギリシア人であるマケドニア王国のアレクサンドロス大王によって、前4世紀末に外から支配されるようになった。アレクサンドロス大王はインドに至るまで遠征し、これによってギリシア人の文化は東方各地の文化と融合し、ヘレニズム文化をつくりだした。ヘレニズム文化の栄えたヘレニズム時代(前3~前1世紀)には、アレクサンドリアが新しい文化の中心地となり、ここに図書館、研究所を中心に自然科学、哲学、文献学などが栄えた。
しかし、前2世紀ごろより西方からローマの勢力が東方に伸び、それから200年ほどの間に、ローマは地中海全域を支配下に収め、「オイクメネー」(エクメネ。人間の住む限りの地という意味)を地中海世界とよびうるものたらしめた。しかし、紀元後3世紀より5世紀末までに、地中海世界を統合する力であったローマ帝国の統一力の弱化に伴い、そのなかに統合されていた各地方はしだいに固有の自主的発展を始め、やがて全体としては、オリエント的アラブ世界(西アジア)、ラテン的ゲルマン的世界(西ヨーロッパ)、ギリシア的スラブ的世界(ビザンティン)がそれぞれ独自の道を歩み始める。こうした発展のなかにあっても、地中海はつねにそれら諸世界をつなぐという機能を失わなかった。
[弓削 達]
20世紀の前半にベルギーの歴史家ピレンヌは、イスラム教徒の進出が古代地中海世界の統一を壊し、古代から中世への転換の要因となったと主張したが、今日ではかならずしもそうは考えられていない。むしろ北アフリカと西地中海がイスラム教徒の勢力下に入った一方で、東地中海にはビザンティン帝国の勢力が強く、この両者を結ぶものとして、ギリシア人、シュリア(シリア)人、ユダヤ人の商人たちが活躍した。11、12世紀になると、北西ヨーロッパの農業生産力の増大に伴い商工業が発展し、ヨーロッパとイスラム世界との交易を、イタリア、南フランス、カタルーニャなどの商人が担当し、東西地中海を結合する役割を果たした。なかでも、ベネチア、アマルフィ、ガエタGaeta(中部イタリア、ラツィオ州の海港都市)、ナポリなどの商人は東地中海で活躍し、バルセロナ、ジェノバ、ピサなどの商人は、西地中海のイスラム勢力に対し武力を使いつつ商業活動を広げた。11世紀末以降の十字軍は、ヨーロッパ勢力の東への拡大であるとともに、進んだイスラムとギリシアの文化をヨーロッパに伝える機縁となり、「12世紀ルネサンス」とよばれるヨーロッパの文化的革新につながった。
13、14世紀には、フランドルとイタリアの毛織物は東方の香料と取引され、紙、蝋(ろう)、皮革、穀物、みょうばん、オリーブ油、ぶどう酒などの多角的貿易が行われた。このころ、ジブラルタル海峡からイスラム勢力が撤退し、ヨーロッパのキリスト教世界にとって地中海地域からイングランド、フランドルへの航路が開かれた。14、15世紀には、ヨーロッパの「経済危機」のため地中海貿易は衰えたが、そのなかでベネチアのみは優位を保った。16世紀には東地中海ではオスマン帝国が強大化し、西地中海ではスペインがイスラム勢力を追い出してイタリアより優位にたち、1571年レパントの海戦でオスマン帝国を破った。これ以後17世紀にかけて、地中海諸地域は経済的に地盤低下し、イギリス、オランダが地中海に進出して国際貿易を支配するようになった。その背景にはイギリス毛織物工業の市場としてのトルコの重要性があった。
[弓削 達]
19世紀から20世紀前半までの地中海は、なによりもヨーロッパ列強の植民地支配のための戦略的重要性をもっていた。主としてイギリス、フランスの植民地経営のための通路であり、地中海を取り囲む地域は植民地経営の対象として列強の角逐の場ともなった。第二次世界大戦後の地中海の地政学的意義はかなり変化した。米ソ対立の冷戦時代にはNATO(ナトー)(北大西洋条約機構)と東欧諸国の接触地帯として、地中海に対するアメリカの世界戦略の一環としての立場が基本的なものであった。しかし、ソ連、東欧社会主義国の崩壊とヨーロッパ諸国の統合化への動きのなかで、イタリア、ギリシア、スペイン、ポルトガル、オーストリアなどはヨーロッパ連合(EU)に加盟、さらにチェコやハンガリーなど東欧諸国の北大西洋条約機構(NATO)、EU加盟によってヨーロッパ統合の動きを加速した。他方、北アフリカ、西アジアの独立国は、そのアラブ主義、イスラム主義、産油国(リビア、アルジェリア)としての地位などによって、地中海の北側、あるいはヨーロッパ諸国と新しい関係をもつようになった。文化的にみれば、ラテン文化圏、ビザンツ文化圏、イスラム文化圏という異質な文化圏に属する地中海地域の多様性がますます顕在化してきているのが現在の事態であるということもできる。
[竹内啓一]
『和田勉著『地中海人間』(1975・日本放送出版協会)』▽『牟田口義郎著『地中海のほとり』(1976・朝日選書)』▽『並河亮著、並河萬里写真『地中海 石と砂の世界』(1977・玉川大学出版部・玉川選書)』▽『W・A・ニーレンバーグ、奈須紀幸他監修『小学館百科別巻2 海洋大地図』(1980・小学館)』▽『小川英雄、大岡昇平、馬場恵二他著『新潮古代美術館6 地中海文明の開花』(1980・新潮社)』▽『谷岡武雄著『地中海の都市を歩く』(1983・大阪書籍)』▽『F・ブローデル著、浜名優美訳『地中海』全5巻(1995・藤原書店)』▽『F・ブローデル編、神沢栄三訳『地中海世界』(2000・みすず書房)』▽『地中海学会編『地中海事典』(1996・三省堂)』▽『D・アッテンボロー著、橋爪若子訳『「図説」地中海物語――楽園の誕生』(1998・東洋書林)』▽『一橋大学地中海研究会著『地中海という広場』(1998・淡交社)』▽『歴史学研究会編『ネットワークのなかの地中海』(1999・青木書店)』▽『歴史学研究会編『古代地中海世界の統一と変容』(2000・青木書店)』▽『NHK「地中海」プロジェクト著『環地中海――民族・宗教・国家の噴流』(2001・日本放送出版協会)』▽『弓削達著『地中海世界』(講談社現代新書)』▽『高山博著『中世シチリア王国』(講談社現代新書)』
大洋の縁辺にあって、いくつかの大陸に囲まれた小さな海。ユーラシア大陸とアフリカ大陸に囲まれたヨーロッパ地中海European Mediterranean Seaは単に地中海Mediterranean Seaとよばれることが多い。南北両アメリカ大陸に囲まれているアメリカ地中海American Mediterranean Seaは、カリブ海Caribbian Seaとメキシコ湾Gulf of Mexicoで構成される。北極海Arctic Oceanも、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸に囲まれた地中海である。アンダマン諸島、東インド諸島、ニューギニア島、フィリピン諸島、台湾の間の海を、総括してアジア地中海Asiatic Mediterranean Seaとよぶ。
[半澤正男・高野健三]
〈地中海〉という言葉は,ラテン語のメディウスmediusとテラterraに由来し,文字どおり〈大陸に囲まれた海〉のことで,北極海,オーストラリア・アジア間の地中海,ヨーロッパ地中海(広義には黒海を含む),紅海,瀬戸内海などがある。一般には,地中海といえばヨーロッパ地中海をさし,狭義でのヨーロッパ地中海(ラテン語では内海Mare Internumと呼ばれていた)は,ヨーロッパ南岸,アジア西岸,アフリカ北岸に囲まれ,面積約297万km2,東西3860km,南北700kmに及び,西はジブラルタル海峡で大西洋に,北はダーダネルス海峡でマルマラ海に,南東部ではスエズ運河を通じ紅海と結ばれている。
地質学的にみると,地中海は現在の旧世界の部分に,石炭紀から第三紀初頭にかけて(約3億~5000万年前),東西にひろくのびた形で存在していたテチス海の最大の残存であって,第三紀以降のユーラシア大陸の造山運動によって,この海は分断され狭められたのである。地質学的なタイム・スケールからみれば,ジブラルタル海峡は狭められつつあるということができる。現在の地中海のおよその輪郭は第三紀に形づくられ,アルプス造山運動による周辺山地の形成,アドリア海の形成,ギリシアと小アジアの間の沈降によるエーゲ海の形成などがこれに相当する。地中海地域各地に地震帯が多く,また火山活動が活発なのも,このような地質学的に最近の地殻運動を物語っている。
アジア沿岸およびアフリカ沿岸の海岸線は比較的単調であるが,ヨーロッパ側沿岸と北東部の海岸線は複雑である。イタリアおよびバルカンの両半島が突出し,そこに多くの湾や入江が形づくられている。地中海海盆は,イタリア半島とシチリア島およびチュニスからシチリアにいたる浅い海嶺によって東西両部分に分けられている。第四紀の一時期この部分は陸続きであった。西部は,バレアル海,リグリア海,ティレニア海などからなり,東部は,アドリア海,イオニア海,レバント海,エーゲ海などからなっている。地形形成が新しいこととも関連して,アドリア海を除いて,大陸棚の発達が貧弱であり,海岸平野の発達も非常に限られている。流入する河川として,ヨーロッパ側には,エブロ,ローヌ,アルノ,テベレ,ポー,アディジェ,タリアメント,バルダル,ストルマをはじめ,数も多く水量も豊かであるし,黒海を考慮に入れれば,ここには,ドナウ(ダニューブ),ドニエストル,ドニエプル,ドンなどの大河川が流入している。これに対して,アジアおよびアフリカ側は,ナイル川を除くと河川の数が非常に限られている。そのほとんどが大陸棚に属し,海底には旧ポー川の河床さえ認められるアドリア海を別にすれば,西のバレアル,ティレニア,東のイオニア,レバントなどの海は,それぞれ最大水深3000mを超す海盆を形成しており,最も深いのは,メタパン海溝における4206mである。エーゲ海の海底地形は島嶼部と連続していて,これが沈水した多島海であることを示している。
地中海は緯度にして北緯30°から45°に位置し,全体としてみれば,この緯度にある大陸西岸にみられるいわゆる地中海式気候に属している。地中海の気候を支配する主要な要因としてあげられるのは,乾燥・安定した気団をなしている亜熱帯高気圧と,中緯度に卓越する西風で,これは大西洋の水分を含んだ前線や温帯低気圧の通過という形で地中海地域に降水をもたらす。夏には地中海のほぼ全域が亜熱帯高気圧の影響をうけるので乾燥した気候を呈する。低気圧が移動するのは,この前後,すなわち春と秋で,冬には,地中海の北部は,ユーラシア大陸中心部に形成される安定した寒冷気団の影響をうける。一般に冬の地中海の気候は,地域的に多様であり,また年による変化が大きい。地中海に流出する冷たい空気は,地形的影響もあって,ミストラル,ボラなどの局地風となる。またイタリアのアドリア海沿岸部は,ボラによって,かなりの積雪がもたらされることになる。このような地中海の気候のために,地中海地域には常緑樹が多いが,一年生の植物は好乾性のものに限られ,石灰岩質の卓越ともあいまって夏の一年生植生は貧弱である。また,人間の手の加えられる前の原植生は,現在よりも豊かであったことは確かである。歴史時代に気候の乾燥化があったために,人間によって,植生がいっそう貧弱なものになったという結果を招いている。
地中海は,世界の海洋のなかで,潮差が小さいことで知られていて,干潮時と満潮時との差が1mを超す海岸はほとんどない。地中海全体として,海岸線に沿って反時計方向の表面流がある。これは大西洋,黒海からの表面流の流入によっている。中層流も表面流と同様に時計回りと反対に環流する傾向がある。水塊は深層水が大西洋の水塊よりはるかに高温である。ジブラルタル海峡では,下層では地中海からかなりの量の高塩分水が流出している。第2次大戦中,この深層流を利用してドイツ軍のUボートは潜水したままで大西洋に脱出することができた。地中海の塩分は,半乾燥的な地中海式気候と,アジア側およびアフリカ側から流入する河川の水量がナイル川を除いて小さいために,大西洋や黒海に比較して高い。ジブラルタル海峡では36.5‰であるが東に行くにつれて高まり,レバント海では39‰以上に達する。アドリア海は塩分が比較的低く,35~37‰である。黒海からは塩分20‰以下の海水が流入するので,ダーダネルス海峡付近の塩分は25‰程度である。
地中海の海洋学的研究に大きく貢献したのはモナコのアルベール1世Albert Ⅰ(1848-1922)の提唱によって創設された地中海科学探求国際委員会であり,モナコには彼が創設した海洋博物館がある。
北西ヨーロッパにおいて進行した農業革命および産業革命の結果,地中海地域はヨーロッパの周辺あるいはヨーロッパ列強の植民地になった。しかし,北西ヨーロッパに定住農耕文明が展開されるまで,とくに古典古代世界においては地中海地域は小麦の乾地農法(ドライファーミング)とオリーブやブドウなどの果樹の栽培によって,世界の先進的農業地帯の一つであった。また,近代になって北海や北太平洋,ニューファンドランド沖などの豊かな漁場が大規模に開発されるようになるまでは,地中海は世界で最も豊かな水産資源を提供する場所と考えられてきた。しかし,現代世界における経済的資源として地中海を見るならば,それは決して豊かなものではない。漁業は沿岸諸国すべてで行われているが,漁獲技術の水準などは世界的に見れば高くはない。また,フランスやスペインのように地中海と大西洋の双方に面している国の場合,漁獲高から見て大西洋・北海漁業の比重が圧倒的に大きい。地中海ではプランクトンの繁殖があまりさかんでなく,また,漁場として重要な大陸棚の面積が限られていることが,世界的に見れば,地中海漁業を低い水準におしとどめている主要な理由である。しかし,複雑な海岸線と島嶼に恵まれた地中海地域の住民は,古来,魚を多く食べてきたし,さまざまな海産資源を利用してきた。シチリア,サルデーニャ,およびスペイン沖におけるカジキマグロ漁や東地中海とくにギリシアにおける海綿採取などは古くからの伝統をもつ独特のものである。
また,地中海地域は急峻な山地および丘陵が卓越しているために,内陸部と沿岸部とのコントラストが激しいことが注目される。内陸部の交通路が十分発達していないため,互いに孤立した内陸部はそれぞれ海への出口を求め,港湾活動を活発にすることによって海上交通を確保することが古くから重要な意味をもっていた。確かに天然の良港は数多いが,地中海の沿岸部について注目しなければならないのは,海岸平野が狭いことおよび沿岸部に湿地が多いことである。沿岸部の湿地の形成は,沿岸海流,地盤運動および石灰岩山地の末端における湧水などの要因が微妙にからみ合って形成されたものであるが,このような湿地帯は,マラリアの蔓延(まんえん)もあって居住に適せず,スペイン,イタリア,ギリシアなどでは近代以降,大規模な排水工事が行われた結果,沿岸部はようやく集約的な農業地帯になった。
古くから人間の生活舞台であった地中海も,現在周辺に住む人々の生活,とくに都市活動,工業活動に由来する廃水,そして地中海に注ぎこむ河川の汚染によって,生態系の危機が問題になっている。21世紀初頭には地中海は〈死の海〉になるであろうという予想も,多くの科学者によってなされている。
地中海が海上交通路としていかに重要な意味をもっていたかということは,すでに先史時代における巨石文化やケルト文化などの移動路を地中海に沿って東から西にたどれることからも知られる。もちろん航海は多くの危険を伴うものであり,海上交通の大部分は,すでに見えている地点を目ざして1日行程の航海を積み重ねるという形をとるものであった。夜になれば港に入るなり,船を砂浜に上げて休むのが普通であったようである。それはそこで商売をしたり,食料や水を補給するためでもあった。ベネチアは一時期,東地中海を支配した海上帝国をなしたといわれているが,実際に軍事的に支配していたのは沿岸部のごく狭い帯状の地域であり,海上交易により繁栄していたベネチアにとってはそれだけでこと足りたのである。
しかし,地中海の航海が,見えている地点を目ざした1日行程の航海だけで成り立つわけではない。前2000年ころ,クレタ島民は地中海を一気に横断してナイル川のデルタに到達する航路を知っていたし,フェニキア人はクレタ島を経てシチリアやバレアレス諸島に直行する航路を知っていた。マグナ・グラエキアにやって来たギリシア人もしばしば直行路をとったに違いない。しかし,これらの航海がとくに冬にはいかに危険なものであったかはホメロス以来,数多くの難破の記録が語り伝えられていることからも知られる。航海技術は時代とともに進歩したが,ベネチアやピサの繁栄時代においても,持船が難破したために破産してしまった商人の例は数多い。商業活動と海賊活動とがはっきりと区別できない段階は長く続いた。太古以来,海上交通と海上交易とが最もさかんな海であった地中海は,したがって近代国家の海軍力が確立する200~300年前ころまでは,海賊の跳梁する場でもあった。リパリ島やエーゲ海のいくつかの島のように海賊の本拠地として,かつて繁栄した島もある。
旧大陸の東西交渉主要交通路であった地中海は16世紀以降その役割を大いに減少させた。地中海諸国の船に代わって,17世紀になればオランダやイギリスなどいわば大西洋勢力の商船が地中海貿易にまで進出してくるようになった。1869年のスエズ運河の開通はヨーロッパ帝国主義国とその植民地とを結びつける通過路としての新しい役割を地中海に与えた。第2次世界大戦の終りまで,ジブラルタル海峡,マルタ島という要衝をおさえることによって地中海の制海権を100年以上にわたって確保し続けたのはイギリスであった。
執筆者:竹内 啓一
気候や風土,その他の自然的環境は人間の生活に影響を与え,その精神,文化や社会の質と構造にまである種の条件を提供する。地中海を中心にし,地中海という自然的条件の作用の中にあった地方もその例外ではない。地中海沿岸地方は歴史的にたどれる時代を通じて,今日とほぼ同様の地中海式気候によって特徴づけられる。地中海式気候のもとでは,夏は高温で乾燥し,冬は雨季であるが温暖で,年間の降水量は少ない。ナイル川を除いては大河がなく,天水は長く土壌にたまることなく流れに沿ってすぐに海に排水される。石材は豊富であるが木材は乏しく,このことはこの地方の建造物の絶対的条件となった。夏季には海の色はあくまでも青く,空気は澄みきり,紺碧の空にくっきりと山々が望まれることは,たとえばギリシア神話の神々の,奔放・闊達な世界を説明するかもしれない。一方,土地は石灰岩質でやせているため,今のチュニジア地方とエジプトや黒海沿岸,それにシチリアなどを除いては穀物の生産量は少なく,一般にオリーブやブドウなどの果樹栽培と羊の牧畜が基本的な生業であることは,この地方の経済と社会のあり方の条件となった。
もし歴史的世界が,気候,風土,地勢などの自然的条件によってのみ決定されるものなら,地中海沿岸に人間が住みついて文化をもつようになってから今日まで,基本的には同質の社会と文化をもった同一の世界が続いてきたであろう。しかし,事実はそうではなかった。古代から現代に至るまで地中海沿岸地方にも歴史学的に見れば性格を異にするいくつかの歴史的世界が継起した。このうち,ギリシア人とローマ人が歴史の担い手になった主として古代のそれを,単に〈地中海世界〉と呼ぶのが歴史学での慣行である。では地中海世界とはどのようにして始まり,終わったのか。それを歴史の流れの中に見ておこう。
前2千年紀初め,インド・ヨーロッパ語系諸族のギリシア人が何波かに分かれてギリシア,エーゲ海地方などに移動・定住し,おくれて前1000年ころ同じインド・ヨーロッパ語系の諸種族がイタリア半島に南下・定住した。後者のひとつローマ人とギリシア人がやがて主体となって歴史は展開していく。ギリシア人ははじめ小村落に分かれて生活したが,前2千年紀の間にミュケナイなどギリシア各地に小王国をつくり,ヒッタイトやエジプトの大王国と密接な関係をもち,発達したオリエント文明の影響をうけたが,小王国崩壊後の〈暗黒時代〉の数百年を経て,前8世紀ころから各地でポリス(都市国家)を形成し,さらに地中海沿岸各地に活発な植民活動をくりひろげた。イタリア半島でギリシア人植民市やエトルリアの影響をうけたローマ人も似たような発展を経て都市国家を形成した。都市国家,とくにギリシアのそれでは,オリエントの農民とは対照的な政治的・精神的に自由な市民の文化が開花した。このようなオリエントと異なった文化が生み出されたのは,この地方にはティグリス,ユーフラテスのような大河がなく,大河の治水のような専制王権を生み出す条件がなかったこと,また地中海が各地を結んで交易をさかんにし,個人の目を広い世界に遠く開かせて個人の自立を助けたことなどがその原因であった。しかし,ギリシア人の世界はポリス相互の対立抗争が激しく(プラトン〈宣戦布告のない戦い〉,M. ウェーバー〈慢性的戦争状態〉),前5世紀初めのペルシアとの戦争の一時期を除いては一つにまとまることができずに,ポリス世界の外からのアレクサンドロス大王の大帝国に従属した。そしてそのあとにできたいくつかの王権の下に入るが,やがて同じような都市国家から発展したローマ帝国の下に地中海地方の諸民族は統一されるにいたるのである。地中海という共通の風土的・地理的公分母のもとに各地で質的にきわめて近い経済的・文化的・社会的発展をしてきた諸民族は,その中から生まれたローマの支配によって一つの歴史的世界としてまとまったのであった。しかしローマ帝国が後3世紀から5世紀に至る長い下降期を経て内的・外的要因によって崩壊すると,地中海世界も解体し,その中からオリエント的・アラブ的世界(西アジア),ラテン的・ゲルマン的世界(中世西ヨーロッパ),ギリシア的・スラブ的世界(ビザンティン帝国)がしだいに形をとってくる。こうして古代の地中海世界は一つの歴史的世界としての姿を消すのである。
執筆者:弓削 達
7世紀から8世紀にかけてイスラム勢力が地中海へ進出したことによって,古代以来の地中海世界の統一性は破壊された。しかし,ベルギーの歴史家ピレンヌが述べているのとは違って,イスラム勢力の進出は一気に行われたわけではないし,地中海が〈イスラム教徒の海〉になったわけでもない。イスラム勢力は一進一退を繰り返しながらしだいに西地中海全域へと拡大するようになり,なおビザンティン帝国の勢力が強かった東地中海との間にはっきりした相違が生じた。この二つの海域を結んでギリシア,シリア,ユダヤ教徒の商人たちが活躍していた。しかし,11,12世紀になると北西ヨーロッパにおける〈農業革命〉の結果,全体として生産力が増大し,商工業も発展してくると,ヨーロッパとイスラム世界の交易が拡大することになった。イタリア,南フランス,カタルニャなど各地の商人の活動によって東・西地中海の再結合が行われたことはとくに注目に値する。東地中海ではベネチアがビザンティン帝国との旧来の関係を利用して活発に活動し,アマルフィ,ガエタ,ナポリなど南イタリアの都市も同様な活動を行った。一方,コルシカ,サルデーニャ,バレアレス諸島などのイスラム勢力と対峙していたバルセロナ,ジェノバ,ピサなどの商人は軍事力を行使しつつ商業圏を拡大し,マグリブ沿岸にまで進出した。
ノルマンによって1130年に建国されたシチリア王国は,この東・西地中海の再結合に大きな役割を果たした。この時代,十字軍によってヨーロッパの勢力がレバントへ拡大したが,文化的には逆に優れたイスラム文化およびその地に保存されていた古代ギリシア文化がヨーロッパに大きな影響を与えた。たとえばアリストテレスの主要な作品がラテン語訳され,ヨーロッパで利用可能となったのも12世紀のことである。ユークリッド,プトレマイオス,あるいはアビセンナ(イブン・シーナー)などもギリシア語,アラビア語からラテン語に訳された。スペインやイタリアにおけるこのような大規模な翻訳活動があって初めて〈12世紀ルネサンス〉と呼ばれるヨーロッパの文化的革新が生じえたのである。自然科学や哲学だけでなく,実用的な数学や商業技術も導入された。イスラム側とキリスト教徒側に分かれているとはいえ,地中海を覆う共通の〈商業文化〉が成立した。
13,14世紀には地中海貿易はさらに拡大し,フランドルやイタリアの毛織物が大量に東方へ送られ,香料と取引された。紙,蠟,皮革,穀物,ミョウバン,油,ブドウ酒などが各地で交易され,多角的な貿易が行われた。13世紀末~14世紀初頭にジブラルタル海峡がキリスト教徒側の勢力下に入り,地中海からイングランド,フランドルへの恒常的な航路が開かれた。また,ベネチア,ジェノバ,フィレンツェなどの金貨は国際的な決済手段として地中海諸地域で広く用いられた。14世紀後半~15世紀にはヨーロッパの〈経済危機〉の影響で貿易量は減少し,海港都市は互いに激しく競争した。その中でベネチアは優れた貿易組織をつくり出し,有利な地位を確保した。バスコ・ダ・ガマのカリカット到達(1498)とインド航路の開発の後も,地中海の香料貿易は重要な意義をもっていた。16世紀には東でオスマン帝国が勢力を拡大し,西ではレコンキスタ(国土回復戦争)を達成したスペインがイタリアをおさえ,これに対抗した。レパントの海戦(1571)が両者の対決の頂点であった。
16世紀後半から17世紀にかけて食糧危機と人口圧力の増大,木材資源の枯渇などによって地中海諸地域の経済的地盤は全体として沈下した。バルト海から穀物がイタリアへ輸送されることすらあった。この時期にイギリス,オランダが地中海に進出し,国際貿易を支配するようになった。人口の多いトルコ領は,17世紀のイギリス毛織物工業にとって,なお重要な市場だったのである。
執筆者:清水 廣一郎
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ヨーロッパの南に横たわる東西約4000kmの大きな内海。沿岸地方の気候は,いわゆる地中海性風土であり,夏期の晴天続きと極度の乾燥とを特色とする。冬が雨季であるが,雨量は西ヨーロッパに比してずっと少ない。夏期には航海が容易で,古代において交通,貿易に大いに役立った。フェニキア人,ギリシア人の植民市建設がこれを物語る。ローマ帝国の時代には地中海は「われらの海」と呼ばれて,属州を結びつける役をしたが,アラブ人がアフリカを占領して以来,この海はむしろ南北を隔てることになった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…海岸近くの入江や,浦,潟(かた)を海とするか湖沼と呼ぶかは,多分に従来の習慣によっている。
【海の地球科学】
[海の分類]
海を分類するには,その位置や大きさ,形状,海水の特性などにより,大洋と付属海に分け,付属海はさらに地中海(大・小地中海),縁海に分ける。大洋とは太平洋,大西洋,インド洋の三つであって,その他の海は,いずれもこれらのどれかに付属させる。…
…またもともと陸続きのアジアとヨーロッパとの境界線は,細部についての種々の議論があるにせよ,地理学の方では,大体北から南に走るウラル山脈を基軸として南に下がり,カスピ海から,黒海の入口ボスポラス海峡を結ぶ線とみるのが常識である。それゆえ面積の上では,ウラル山脈の西に広がる坦々たるロシアの大平原とその延長とが大部分を占めているわけで,西に進んでスカンジナビア半島とカルパチ(カルパティア),アルプスの両山脈にきて,初めて険しい山岳地帯に出くわし,やがて大西洋および地中海,あるいはまたバルト海,北海の複雑な海岸線に達するというのが,だいたいのヨーロッパの地形である。 またヨーロッパの気候は,アジアと比べればおおむね温暖で,海洋性気候の恩恵を受ける地域が多く,ロシアの内陸の乾燥地や極北および一部のステップ地帯のほかは,不毛の地はきわめてまれである。…
※「地中海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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