シチリアの晩鐘(読み)シチリアノバンショウ(その他表記)Vespri Siciliani

デジタル大辞泉 「シチリアの晩鐘」の意味・読み・例文・類語

シチリアのばんしょう【シチリアの晩鐘】

原題、〈フランスLes vêpres siciliennesベルディフランス語およびイタリア語によるオペラ。全5幕。パリ万国博のために作曲され、1855年にオペラ座初演。13世紀末、フランス支配下のシチリア島パレルモにおいて、フランス人が虐殺された史実を題材とする。シチリアの夕べの祈り。

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改訂新版 世界大百科事典 「シチリアの晩鐘」の意味・わかりやすい解説

シチリアの晩鐘 (シチリアのばんしょう)
Vespri Siciliani

1282年シチリアで生じた島民アンジュー家に対する反乱シャルル・ダンジューの入国以来16年の圧制に反感を抱いていた島民が,フランス人兵士といざこざを起こしたことから3月31日聖月曜日の夕方,晩鐘時刻にパレルモのサント・スピリト広場に群衆が集まって暴動となり,これが全島に拡大したといわれる。しかし,この反乱は決して自然発生的なものではなく,前代ホーエンシュタウフェン家シュタウフェン朝)の遺臣や北イタリアの皇帝派都市,アラゴンのペドロ3世などの画策が背後にあったと考えられている。フランス人兵士は多く殺害され,新たな国王として招かれたペドロ3世は同年9月にシチリアに到着し,アンジュー家の勢力を激戦のすえ島から追い払った。これ以後アンジュー家のシチリア王国ナポリ本拠とすることになる。なお,この反乱は外国支配からの脱却の例としてイタリアのリソルジメント期の人びとに注目された。ベルディの同名のオペラ(1855初演)もその一つである。
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百科事典マイペディア 「シチリアの晩鐘」の意味・わかりやすい解説

シチリアの晩鐘【シチリアのばんしょう】

1282年シチリアで起きた反乱。1266年フランス王弟のアンジュー伯シャルルはシチリア国王マンフレートを敗死させ,教皇からその王領を与えられた。このフランス人支配に反対した島民は,1282年3月31日聖月曜日の祈りの晩鐘の時刻にパレルモで蜂起(ほうき)し,やがて全島にわたりフランス人の大虐殺が行われた。この機に乗じてマンフレートの女婿アラゴン王ペドロ3世が出兵,シチリアを奪回した。→シチリア王国ナポリ王国
→関連項目アンジュー[家]パレルモ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シチリアの晩鐘」の意味・わかりやすい解説

シチリアの晩鐘
しちりあのばんしょう
Vespro Siciliano イタリア語

1282年に、16年間シチリアを支配していたアンジュー家に対して島民が起こした反乱。3月31日復活祭の聖月曜日の夕方、晩鐘の鳴る時刻にフランス人兵士の専横に抗議してパレルモの民衆が反乱を起こし、これが全島に拡大して多数のフランス人が殺害されたと伝えられている。この反乱の結果、アンジュー家の勢力はシチリア島から一掃され、かわりにアラゴンのペドロ3世がシチリア王位につくことになった。この反乱の根底にはアンジュー家の圧政に対する民衆の反発があったが、それに13世紀中葉までシチリアを支配していたホーエンシュタウフェン家の遺臣の策謀やペドロ3世の野心などが複雑に絡み合っていた。この結果、シチリアと、ナポリを中心とする南イタリアとは別の国となり、両者の戦いは1302年まで続いた。なお、この反乱に題材をとったベルディの同名のオペラ(1855初演)がある。

[清水廣一郎]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「シチリアの晩鐘」の解説

シチリアの晩鐘(シチリアのばんしょう)
Vespro Siciliano

シチリアの晩祷(ばんとう)ともいう。中世シチリアのフランスに対する反乱。アンジュー家のシャルルがフリードリヒ2世の庶子マンフレートを破り,教皇より封与を得て南イタリアに君臨した。この支配に反発したシチリアの貴族たちは,1282年復活祭前夜の鐘を合図に,フランス人虐殺の暴動をパレルモに起こした。やがて全島に反乱は広がり,マンフレートの娘婿アラゴン王ペドロ3世はこの反乱を助けて出兵し,シャルルからシチリアを奪った。

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旺文社世界史事典 三訂版 「シチリアの晩鐘」の解説

シチリアの晩鐘
シチリアのばんしょう
Vespri Siciliani

1282年3月の復活祭のとき,祈りをささげる晩鐘を合図にシチリア島で暴動が起こり,フランス人を虐殺した事件
暴動は,ローマ教皇により両シチリア王国の領有を認められたフランス,アンジュー伯のシャルル1世が悪政を行ったことに反発して起こったもので,首都パレルモを中心に全島に広まった。この機に乗じて出兵したアラゴン王がフランスの勢力をシチリア島から一掃し,シチリアを奪回した。

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世界大百科事典(旧版)内のシチリアの晩鐘の言及

【パレルモ】より

…しかし,一方では経済の衰退が始まっていた。フランスのアンジュー家の統治下では,ナポリに首都が移され,その圧政に対して,1282年の復活祭に〈シチリアの晩鐘〉として知られる反乱が起こり,アンジュー家は駆逐され,代わってアラゴン王家が支配する。しばらくパレルモの衰退は続いたが,15世紀から再び活気を取り戻し,道路,教会堂などの建築が行われた。…

【メッシナ】より

…843年イスラム教徒に征服され,1061年からのノルマン治下では,商業も文化もともに栄え,バシレイオス派修道院サン・サルバトーレ・ディ・グレチは学問の中心地でもあった。1282年の〈シチリアの晩鐘〉の乱では,市を包囲したアンジュー軍に対して女性を含む全市民が戦い,同軍を撃退した。スペイン治下の1674年,フランスのルイ14世の介入をあてにして反乱を起こしたが失敗に終わった。…

※「シチリアの晩鐘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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