1282年シチリアで生じた島民のアンジュー家に対する反乱。シャルル・ダンジューの入国以来16年の圧制に反感を抱いていた島民が,フランス人兵士といざこざを起こしたことから3月31日聖月曜日の夕方,晩鐘の時刻にパレルモのサント・スピリト広場に群衆が集まって暴動となり,これが全島に拡大したといわれる。しかし,この反乱は決して自然発生的なものではなく,前代のホーエンシュタウフェン家(シュタウフェン朝)の遺臣や北イタリアの皇帝派都市,アラゴンのペドロ3世などの画策が背後にあったと考えられている。フランス人兵士は多く殺害され,新たな国王として招かれたペドロ3世は同年9月にシチリアに到着し,アンジュー家の勢力を激戦のすえ島から追い払った。これ以後アンジュー家のシチリア王国はナポリを本拠とすることになる。なお,この反乱は外国支配からの脱却の例としてイタリアのリソルジメント期の人びとに注目された。ベルディの同名のオペラ(1855初演)もその一つである。
執筆者:清水 廣一郎
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1282年に、16年間シチリアを支配していたアンジュー家に対して島民が起こした反乱。3月31日復活祭の聖月曜日の夕方、晩鐘の鳴る時刻にフランス人兵士の専横に抗議してパレルモの民衆が反乱を起こし、これが全島に拡大して多数のフランス人が殺害されたと伝えられている。この反乱の結果、アンジュー家の勢力はシチリア島から一掃され、かわりにアラゴンのペドロ3世がシチリア王位につくことになった。この反乱の根底にはアンジュー家の圧政に対する民衆の反発があったが、それに13世紀中葉までシチリアを支配していたホーエンシュタウフェン家の遺臣の策謀やペドロ3世の野心などが複雑に絡み合っていた。この結果、シチリアと、ナポリを中心とする南イタリアとは別の国となり、両者の戦いは1302年まで続いた。なお、この反乱に題材をとったベルディの同名のオペラ(1855初演)がある。
[清水廣一郎]
シチリアの晩祷(ばんとう)ともいう。中世シチリアのフランスに対する反乱。アンジュー家のシャルルがフリードリヒ2世の庶子マンフレートを破り,教皇より封与を得て南イタリアに君臨した。この支配に反発したシチリアの貴族たちは,1282年復活祭前夜の鐘を合図に,フランス人虐殺の暴動をパレルモに起こした。やがて全島に反乱は広がり,マンフレートの娘婿アラゴン王ペドロ3世はこの反乱を助けて出兵し,シャルルからシチリアを奪った。
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…しかし,一方では経済の衰退が始まっていた。フランスのアンジュー家の統治下では,ナポリに首都が移され,その圧政に対して,1282年の復活祭に〈シチリアの晩鐘〉として知られる反乱が起こり,アンジュー家は駆逐され,代わってアラゴン王家が支配する。しばらくパレルモの衰退は続いたが,15世紀から再び活気を取り戻し,道路,教会堂などの建築が行われた。…
…843年イスラム教徒に征服され,1061年からのノルマン治下では,商業も文化もともに栄え,バシレイオス派修道院サン・サルバトーレ・ディ・グレチは学問の中心地でもあった。1282年の〈シチリアの晩鐘〉の乱では,市を包囲したアンジュー軍に対して女性を含む全市民が戦い,同軍を撃退した。スペイン治下の1674年,フランスのルイ14世の介入をあてにして反乱を起こしたが失敗に終わった。…
※「シチリアの晩鐘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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