パレルモ(読み)ぱれるも(英語表記)Palermo

日本大百科全書(ニッポニカ) 「パレルモ」の意味・わかりやすい解説

パレルモ
ぱれるも
Palermo

イタリア南部、シチリア自治州の州都。人口65万2640(2001国勢調査速報値)。シチリア島北西部、ペッレグリーノ山(606メートル)の麓(ふもと)に広がる海岸平野コンカ・ドーロに位置し、ティレニア海のパレルモ湾に面する港湾都市。かつて一面に広がっていた柑橘(かんきつ)類の栽培地は、第二次世界大戦後、市街地の拡大に伴い著しく減少した。造船、食品、衣料、家具などの製造業が営まれるが、造船業を除けば中小工場が一般的である。ローマおよびナポリとの間に航空路がありナポリやジェノバなど各地と船でも結ばれ、旅客往来は活発である。しかし硫黄(いおう)や柑橘類の輸出港としてのパレルモ港の機能は、いまではほとんど停止している。州の行政、交通、商業、金融、文化の中心地で、1805年創設の大学がある。ビザンティン、アラブノルマンバロックなど多様な様式の建築物が残る。ノルマン王宮(12世紀、正面は18世紀)、大聖堂(1185)、サン・ジョバンニ・デリ・エレミティ教会(12世紀前半)、プレトリアの泉(16世紀)、国立考古学博物館、国立シチリア美術館などがある。

[堺 憲一]

歴史

紀元前8~前7世紀、フェニキア人によって建設された。第一次ポエニ戦争中の前254年、ローマ人の支配下に入る。ラテン名パノルムスPanormus。紀元後535年以後約3世紀のビザンティン帝国支配を経て、831年イスラム教徒に占領され、そのもとで繁栄し、柑橘類の栽培が始まった。1072年ノルマン人により征服され、とくにルッジェーロ2世(在位1130~54)と後のホーエンシュタウフェン家フリードリヒ2世(在位1198~1250)治世下で、シチリア王国の首都として全盛時代を迎える。しかし1266年アンジュー家の支配が始まり、「シチリアの晩鐘」とよばれる反乱(1282)が起こるころから衰退が始まった。経済的には17世紀末以降、港湾都市というより農産物集散地としての性格を強めるようになった。その後サボイアブルボンなどによる統治を経て、1860年イタリア王国に併合された。

[堺 憲一]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「パレルモ」の意味・わかりやすい解説

パレルモ
Palermo

イタリア南部,シチリア州の州都。パレルモ県の県都でもある。シチリア島西部の北岸に位置し,パレルモ湾に臨む。前8世紀フェニキア人(→フェニキア)により建設され,古代にはパノルムス Panormusと呼ばれた。地中海文明の十字路にあるため,異民族による占領が相次いだ。1072年ノルマン人が進出してシチリア王国の首都として栄えたが,ヨーロッパ強国の侵略,支配が続き,1282年には「シチリアの夕べの祈り」として知られるフランス人虐殺事件が起こった。コンカ・ドーロ(黄金の盆地)と呼ばれる肥沃な灌漑農業地帯を後背地として,ナポリと定期船便で結ばれ,果物など農産物を積み出す。パレルモ大都市圏を形成し,伝統的な絹,綿,毛織物工業のほか,造船,鉄鋼,化学,その他の工業も行なわれる。古い城壁の一部が残存し,その内部にはアラブ・ノルマン様式を取り入れた特徴的な 12世紀の建築物が多く残され,ノルマン王宮とパラティーナ礼拝堂,パレルモ大聖堂,サン・ジョバンニ・デリ・エレミティ教会,マルトラーナ教会,サン・カタルド教会などが,2015年世界遺産の文化遺産に登録された。古代ギリシアなどの遺物を収めたシチリア州立考古学博物館がある。人口 65万5875(2011推計)。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報