コトバンクはYahoo!辞書と技術提携しています。

ホメイニ Ayatollah Ruhollah Khomeini

3件 の用語解説(ホメイニの意味・用語解説を検索)

大辞林 第三版の解説

ホメイニ【Ayatollah Ruhollah Khomeini】

1902~1989) イランのイスラム教シーア派指導者。1979年のイラン革命後、イラン-イスラム共和国を成立させ、イスラム革命を指導。

出典|三省堂
大辞林 第三版について | 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ホメイニ
ホメイニ
al-Khomeinī, Ruh-allah al-Mūsawī; Ayatollah Ruhollah Khomeini

[生]1902.9.24. ホメイン
[没]1989.6.3. テヘラン
イランの宗教・政治指導者。イランの小村ホメインで祖父,父ともにイスラム教シーア派の聖職者の家系に生れる。幼少のとき父母を失い,伯母に育てられ,聖都コムでイスラム神学教育を受ける。 26年からコムの神学校で教え,哲学,法学,倫理などに関する多くの書を著わす。

本文は出典元の記述の一部を掲載しています。

出典|ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について | 情報

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ホメイニ
ほめいに
Rhallah al-Mousavi Khomeyn
(1900―1989)

イスラム教シーア派の高名な法学者、大アヤトッラー(シーア派最高宗教指導者の称号)の一人であり、イラン・イスラム共和国の初代最高指導者。イラン中部アラーク市近郊のホメイニ村で生まれ、父は宗教指導者で地主であった。アラーク、コムの神学校でハーエリ・ヤズディ師に学ぶ。1922年の同師のコムへの移動とともにコムに移り、1936年コーラン解釈権の認められるムジュタヒドに昇格した。1961年にはアヤトッラーであるボルジェルディーusayn Burjirdi死去後、書物を出版しアヤトッラーの資格を得て、過激なイスラム主義の指導者としての地位を確立した。1963年にはパーレビ(パフラビー)国王の農地改革と弾圧政治に強く反対したため、逮捕された。翌1964年4月には釈放されたが、反対運動を再開したため11月にトルコのブルサ市に追放された。1年後、シーア派の聖地、イラクのナジャフに移り、親西欧的なパーレビに反対しイラン建国2500年祭を非難した。1970年に『イスラム政権――神権政治論集』を出版し、同著書は革命後のイラン政治体制の礎(いしずえ)となった。1975年イランが一党制になったことへの批判を強め、巡礼者を通じたホメイニの演説テープの流入がイラン革命の引き金になった。1978年には反パーレビ演説を行ったため、イランと関係改善を希望したイラクのサダム・フセインにより追放され、11月にパリに移動した。1979年2月、イラン・イスラム革命の勝利によって帰国した。
 革命後に、最高指導者となったホメイニは、穏健派のバザルガン、バニサドルを解任し、強硬な原理主義を貫いてイスラム体制を維持強化した。同時に、穏健派と強硬派を交互に調整し新体制を維持した。しかし、1987年にはイスラム共和党を解散させ、翌1988年7月に国連決議を受け入れ「毒を飲むよりつらい」と表現しつつ、イラクとの停戦を受諾した。この時期、イラン経済は革命以来もっとも深刻な事態に陥っていた。1989年の死去後、その後継はハメネイが選ばれ、コム郊外にはホメイニのための大きな廟(びょう)がつくられた。[加納弘勝]
『共同通信社訳・刊『ホメイニわが革命』(1980) ▽H・ヌスバウマー著、アジア現代史研究所訳『ホメイニー』(1981・社会思想社) ▽加納弘勝・駒野欽一著『イラン1940―1980 現地資料が語る40年』(1982・中東調査会) ▽富田健次著『アーヤトッラーたちのイラン――イスラーム政治体制の矛盾と展開』(1993・第三書館)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
日本大百科全書(ニッポニカ)について | 情報 凡例

ホメイニの関連キーワードレーザレーダ追突警報装置正岡子規熱雲宮田[町]熔結凝灰岩濱田万葉里見☆しのぶ平成金星探査機台湾映画

今日のキーワード

稀勢の里寛

1986- 平成時代の力士。昭和61年7月3日生まれ。中学卒で鳴戸部屋に入門し,平成14年3月初土俵。16年5月新十両,同年11月には18歳4ヵ月で新入幕をはたす。18年7月新三役小結,21年3月新関...

続きを読む

コトバンク for iPhone

ホメイニの関連情報