改訂新版 世界大百科事典 「ボンベイ」の意味・わかりやすい解説
ボンベイ
Bombay
インド西部,マハーラーシュトラ州の州都。大都市域としての大ボンベイの人口1198万(2001)。地名はポルトガル語のボン・バイア(〈良湾〉の意)に由来するが,1995年,より古いインド地名のムンバイーMumbai(原住民のコーリー漁民が崇拝していたパールバティー女神の化身ムンバにちなむ)に改称された。いまはムンバイー港となっている大きな湾入と,それを取り巻く西ガーツ山脈直下の海岸平野としては大きな平野をもち,さらに同山脈中の背後の鞍部を通る交通路によりデカン高原および北インドと結ばれている。
歴史
この恵まれた条件にもかかわらず,ここに都市が形成されるにいたったのは16世紀になってからである。それ以前には現在は衛星都市と化している湾奥部のターナなどが対アラビア貿易の港として栄えていた。当時,現在の市の中心部は七つの島からなり,漁村が点在するのみであった。都市形成は1534年にポルトガルがグジャラートのスルタンであるバハードゥル・シャーからここを取得したのに始まる。ポルトガルはここに要塞と教会を建て,ゴアの補助港とした。1661年にポルトガル王妹カタリーナがイギリス王チャールズ2世に嫁いだとき,ムンバイーは贈物としてイギリスに委譲された。68年にはイギリス東インド会社に年10ポンドで貸与され,同会社はムンバイーをスラト商館の管轄下に置き,城塞の建設と来住者への交易および信仰の自由の保障などを行った。これにより主としてグジャラートからインド人の商人カースト(バニアー),パールシー(ペルシア系のゾロアスター教徒),アルメニア人などが来住した。しかし海賊の横行,年降水量2078mmのうち94%までが6~9月に集中するという高温多湿の気候からくる熱帯性諸疫病の流行などのために,17世紀を通じて発展は小さかった。
1687年に東インド会社は根拠地をスラトからここに移し,これがムンバイー発展の契機となる。19世紀にはいると第3次マラーター戦争(1817-18)によるイギリスのデカン高原の制圧,1850年代からの内陸への鉄道建設の開始,とりわけアメリカの南北戦争(1861-65)によるランカシャー綿業のアメリカ綿からインド綿への原料転換などにより,ムンバイーは飛躍的に発展した。ムンバイーは急増するデカン高原産の綿花輸出港となった。さらに69年のスエズ運河の開通はヨーロッパへの距離を大きく短縮させ,インドの西方への門戸というムンバイーの地位を確立させた。19世紀中期にはイギリスの工場制度を導入した中国向けの紡績業が,当時の北方郊外地区バーイケラー周辺に立地して工業化も始まった。紡績業は1900年には136工場,従業員約10万人に成長した。その頃から織布業に転換し,英領インド最大の綿業都市となった。これらの諸工場の経営もしだいにインド民族資本を主体とするにいたった。人口も1720年の約5万から,1815年には24万,49年には55万,91年には82万に増加した。20世紀にはいってからも諸経済活動の集積と都市拡大が進み,とりわけインド独立後はカルカッタの低落とは逆にインド経済に占める地位を上昇させてきた。
市街と産業
市の中心部は,現在は半島化した旧ムンバイー島の双耳状南端部にある。その東耳部の基部がフォート地区で,そこは初期ムンバイーの核心ジョージ城塞の跡である。旧城内には円形広場を取り巻いて公会堂,中央銀行ほかの諸銀行本店,造幣所,株式取引所,税関,諸企業本社が建ち並び,インド経済の中枢をなす。その北端に接して中央郵便局とビクトリア終着駅がある。フォート地区の西側はマイダーンと呼ばれるかつての砲撃用遮断緑地にあたり,その東縁沿いに市庁舎,高等法院,大学などが並ぶ。マイダーンの西は第1次大戦後に形成された中・高層の高級アパート地区で,その西縁を臨海道路マリン・ドライブ(かつて〈女王の首飾り〉と呼ばれた)がバック・ベイに沿ってマラバルの丘へ向けて弧を描いて走る。同丘は最高級住宅地区であるが,パールシーの鳥葬の場である沈黙の塔も建つ。高級商店街はビクトリア終着駅北方のジャベーリー・バーザール一帯にある。港湾地区は旧ムンバイー島の東岸をセーウリからフォート地区南端まで約8kmにわたって広がり,北半部には綿花,穀物,石油,石炭,木材などの専用埠頭が,南半部には一般貨物と旅客用埠頭および海軍基地がある。その最南端にイギリス王ジョージ5世の来印を記念して1911年に建てられた〈インド門Gateway of India〉がある。また,インド門の北東海上にはヒンドゥー教石窟で知られるエレファンタ島が位置する。以上の諸地区にある公共建造物の多くは19世紀中期~20世紀初めに建設され,ヨーロッパ的都市景観をつくり出している。これら諸地区の北方がかつてはインディアン・ボンベイと呼ばれた人口稠密な集住地区で,4~5階建ての店舗付集合住宅が密集する。紡績業が最初に立地したバーイケラー地区はいまではその中央部にある。ムンバイーの外延的拡大につれて,現在の住宅地区も旧ムンバイー島を越えてサンタ・クルス国際空港周辺にまで及んでいる。工業地区はさらに北方にまで及んでおり,食品,雑貨,繊維の軽工業のほか,一般機械,自動車,電機,化学,石油化学などの重工業や映画産業が立地する。1970年から過密の解消を目ざして,港湾地区を隔てた東方の対岸に人口200万の新市を建設してムンバイーの双子都市化を図る計画が進捗しつつある。
執筆者:応地 利明
博物館
フォート地区の南側にあるプリンス・オブ・ウェールズ博物館は1921年に創設された西インド最大の博物館である。西インドの石窟からの石彫,ガンダーラ彫刻,ミールプルハース出土のテラコッタ彫刻,アイホーレ出土の石彫などが注目されるほか,ムガル,ラージプート両派の細密画のコレクションも充実している。また,バーイケラー駅東のビクトリア・アンド・アルバート博物館は産業博物館であるが,細密画にもみるべきものがある。
執筆者:肥塚 隆
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報