改訂新版 世界大百科事典 「紡績業」の意味・わかりやすい解説
紡績業 (ぼうせきぎょう)
各種の繊維から糸を紡ぐ産業のことであるが,代表的なのは綿糸紡績業である。江戸時代までの綿糸は手紡ぎによって生産され,紀伊,淡路などの特産地も形成されたが,一般には製織と結合した形で農村家内工業として営まれ,その従事者は数百万人に上ったと推定される。開港後,イギリス品を中心とする良質,安価な綿糸布の輸入によって,手紡ぎの衰退と生産性の高い機械制工場建設の動きが始まった。まず薩摩藩が1867年(慶応3)イギリス製機械による鹿児島紡績所を鹿児島に開設した。続いて70年に同じく薩摩藩が堺に堺紡績所を開設(1872年に官営となる),72年には東京の木綿問屋鹿島万平が東京滝野川に鹿島紡績所を設立した。この3工場が日本のいわゆる〈始祖三紡績〉である。
明治政府は,輸入全体の3分の1前後を占める綿製品の輸入を減らすのと綿作の回復のため,紡績業の育成を図り,1878年から労働者数十人で2000錘規模の工場を各地に建設させる政策をとった。模範工場としては官営愛知紡績所と広島紡績所を設立し,一方,イギリスから輸入した2000錘紡績機10基を民間有志に年賦で払い下げ(十基紡),また県・民間の紡績所に資金を貸し付け,さらに内務省技師を技術指導に派遣した。その結果,80年代半ばまでに20ヵ所近い小紡績が開業したが,大部分は経営不振で,むしろ臥雲辰致(がうんたつち)(1842-1900)が1876年に発明した〈ガラ紡〉が一時的に広まった。この間,渋沢栄一が主唱し,華族,政商,都市商人を株主として,82年に設立,83年に操業開始した大阪紡績会社(現,東洋紡績)は蒸気力による1万500錘の規模をもち,2交替制昼夜業を実施して好成績をあげた。これに刺激されて,東京綿商社(1886,のち鐘紡。現,クラシエホールディングス),和歌山紡績(1887,現,大和紡績),尼崎紡績(1889,現,ユニチカ)など大阪を中心に明治20年ごろから高配当を期待する都市商人を主体に,洋行帰りの技師を雇い入れて1万錘規模の紡績会社が次々に誕生し,機械製綿糸生産は急増して90年には早くも輸入綿糸を上回った。このころから,最新式のリング精紡機がミュール精紡機に代わって中心となり,生産性が高まり,また女工比率も上昇した。原料綿も中国綿に次いでインド綿,アメリカ綿が輸入され,製品も20番手以上の綿糸生産が可能となり,その結果,綿糸輸入は大幅に減少した。中国向けの輸出も,綿糸輸出海関税免除法が施行された94年には試売の域を脱し,綿花輸入税免除(1896)の翌97年には綿糸輸出が輸入を凌駕(りようが)し,生糸に次いで輸出第2位となった。さらに98年からは生産のほぼ30%以上が輸出に向けられた。綿花輸入,綿糸輸出は三井物産,日本綿花,内外綿などの商社が主として扱い,綿糸の国内販売では洋糸問屋から転じた大阪,名古屋,東京の綿糸問屋が中心となった。98年には紡績錘数は100万錘を超え,99年には紡績会社の資本金の合計は全工業会社の資本金の25%を占めた。労働者数は1897年に5万人を超え,1900年には全工場(10人以上)労働者数の16%を占めた。
このように,綿糸紡績業は日本の産業革命を代表する産業資本として確立した。その急速な確立の基礎条件は低賃金による賃金コストの低さであり,それは,リング紡績機や電灯など欧米の最新技術と,農村からの出稼ぎ若年女工の欧米とは隔絶した低賃金との結合によって実現されたのであった。なお,綿糸国内市場は回復されたとはいえ,綿花(1891年輸入第1位)と機械の全面的輸入依存のため,綿関係品の貿易入超は内需増にともなってむしろ拡大しつつあった。
紡績業の統合
日清戦後の恐慌(1900-01)は紡績資本が主導した最初の本格的資本主義恐慌であったが,同時に独占形成の起点ともなった。これを画期として紡績連合会による操業短縮が本格化し,綿糸価格は下方硬直性を強めて不況の影響は織物業に転嫁された。そのため綿織物業においては,問屋制(といやせい)家内工業の後退と国産小幅力織機導入による小工場化が促進されていった。日露戦後恐慌(1907-08)後には紡績連合会のダンピング輸出奨励策にのって綿糸輸出が再び増加し,1914年には中国市場ではインド綿糸を上回った。1890年代から始まっていた輸入広幅力織機による紡績兼営織布業も,1900年代に入ると本格化した。05年に生産綿糸のうち,兼営織布用原糸が10%台に達した。粗布を中心とするその製品は主として輸出に向けられ,06年には大阪紡績など3社が,対韓国綿布輸出のために組織した三栄綿布輸出組合による韓国での独占利潤を支えに,同じく06年に組織された日本綿布輸出組合による〈満州(現,中国東北部)〉へのダンピング輸出が行われた。その結果,綿布輸出は09年に輸入を凌駕し,11年には中国市場でアメリカを抜いてイギリスに次ぐ地位を占めた。この間,独占的大紡績が形成されていった。鐘淵紡績,摂津紡績は破綻会社を合併・買収して大規模化しつつ輸出向け良質太糸市場を独占し,三重紡績,大阪紡績は織布設備を拡充しつつ兼営織布市場を独占し,また尼崎紡績は国内向け中糸市場を独占し,それぞれ不況期にも高利潤をあげた。これらの大紡績は利潤の内部蓄積を進めて銀行・商社への金融的依存度を低下させてみずからの地位を強化し,原綿輸入の代金として綿花の輸入商に交付した〈紡績手形〉は銀行が争って低利で割り引くようになった。第1次大戦にともなう好況によって内外の需要は急増し,とくに綿布輸出が大幅に増えて,綿糸に代わって17年には輸出第2位の地位を占めるようになった。戦争の影響でインド綿や紡績機の輸入難のために綿糸生産はそれほど増加しなかったので,価格の騰貴は著しかったが,それにともなう莫大な利潤を集中的に吸収したのは大紡績であった。1914年には三重紡績,大阪紡績の合併で東洋紡績が,18年には尼崎紡績の摂津紡績の合併で大日本紡績(ユニチカ)が成立して鐘淵紡績を含む三大紡態勢が確立し,この3社は綿糸生産の51%を集中(1918)しつつ,巨額の利潤を蓄積して自己金融化を強めた。
1920年の反動恐慌を巨額の内部蓄積で切り抜けた大紡績は,これを契機に流通過程に対する支配的地位を固めた。綿糸暴落で1年以上の先物を含む契約は実行不能となり,紡績会社は綿糸問屋との間で〈総解合〉(現物受渡しをやめ,契約価格と一定の棒値との値合金の一部授受で決済する)を行ったが,問屋の多くは地方商人,機業者の破綻の影響で破産に追い込まれ,また従来紡績から与えられていた綿糸代日歩戻しを打ち切られていった。一方,紡績会社は商社と綿花・綿糸布売買契約を相互に実行し,24年には原綿代の日歩戻し付き現金払いの協定を成立させるなど商社への優位を築き,国内相場は綿花産地よりも安いという状態をつくり出し,安価な原綿によってさらに蓄積を進めた。大紡績は21年末以降5年余の間,中小紡績会社の要請にもかかわらず操短を行わせず業界の整理を図り,1920年代の買収・合併・解散・減資社数は40を超えた。
第1次大戦を契機とする賃金上昇の結果,賃金コストが上昇して太糸の輸出競争力が低下すると,大紡績を中心とする有力紡績会社は,中国に資本を輸出して紡績業を営む(在華紡)とともに,国内では細糸・綿布・加工綿布の生産増強に努め,さらに豊富な資金力をもって人絹工業などにも進出した。1929年7月からの工場法改正による深夜業(夜10時~朝5時)の禁止が迫ると,〈標準動作〉の採用,電動機・ハイドラフト紡績機・自動織機など最新設備の導入によって合理化を進め,昭和恐慌を機に人員整理と賃金引下げを断行してコスト低下を実現した。それを前提とし,31年の金輸出再禁止にともなう為替安を支えとして,東南アジアを中心に綿布輸出を大幅に伸ばし,ついに33年にはイギリスを抜いて綿布輸出量世界一(20億9000万ヤード)となり,翌年には不振の生糸に代わって日本の輸出第1位となった。
しかし日本綿布の急進出は,イギリスなどのブロック経済化の動きと衝突し,1933年のインドの日印通商条約破棄声明をはじめとして輸入制限の動きが各地に生じ,日本綿布の輸出先106ヵ所のうち40ヵ所で数量制限,16ヵ所で関税差別が行われるありさまとなり(1936),綿布輸出額は35年の10億円を頂点として減少しはじめた。日中戦争が始まると,軍需資材の輸入が最優先されるようになり,外資獲得・節約の観点から原料を輸入に依存する綿業は厳しく統制されるようになった。38年3月には綿糸は配給制となり,次いで6月には軍需向けなどを除く国内向け綿製品の製造・加工・販売が禁止され,7月からは綿製品輸出実績に対して綿花輸入が割り当てられる輸出入リンク制が実施され,同年から綿糸生産は減少に転じた。次いで〈経済新体制〉に即応するために,40-43年に3次に及ぶ企業整備が行われ,76社あった紡績会社は100万錘を基準として10社(大日本,東洋,鐘淵,富士瓦斯,日清,倉敷,大和,敷島,日東,呉羽で,十大紡といわれる)に統合されるとともに,工場の軍需工場への転用,機械のスクラップとしての供出が進められ,さらに戦災被害も加わって,紡績錘数は敗戦時には最盛期(1938)1255万錘に対して,わずか206万錘にまで減少した。また,戦争にともなう紡績10社(払込資本10億円)の損失額は,在外財産8億円弱を含めて約36億円に上った。
戦後の紡績業
戦後,GHQは,食糧輸入のための外貨獲得産業として綿糸紡績業の復興を図り,1946年には綿製品の60%を輸出して原綿代を償還することを条件にアメリカの余剰綿花の輸入を認め,翌年には400万錘までの設備復旧を許可したので,10社のほかに25社の〈新紡〉が生まれた。朝鮮戦争にともなって〈糸へん景気〉が起こり,51年上期の法人所得ベストテンは東洋紡績をはじめ繊維メーカーが独占するありさまとなった。綿布輸出は東南アジアを中心に急増して,51年には再び世界第1位の規模となり,52年には国内の繊維消費も戦前水準を回復した。この間,1950年6月に設備制限が撤廃されたことから〈新々紡〉の設立が相次ぎ,100社近くに上った。その結果,業界では30万錘以上の十大紡と1~3万錘の小紡績とが併存する状態となり,58年には錘数は902万錘まで増加した。しかし,1952年には特需ブームの反動で操短に追い込まれ,54年には消費ブームの反動不況に見舞われるなど,早くも綿製品の過剰化が問題となりはじめ,政府は56年から繊維工業設備臨時措置法を実施し,新増設に歯止めをかけるとともに過剰設備整理に着手した。しかし,対米輸出自主規制(1956),日米綿製品協定(1962)などによって対先進国輸出の制限はしだいに厳しくなり,また,国内でも化学繊維,次いで合成繊維の普及によって綿製品市場への侵食が進み,繊維消費中の綿の比重は,戦前の3分の2から60年代には3分の1に低下していった。紡績各社は多角化に努めたが,57年からは化繊も過剰状態となり,合繊も64年には不況に陥った。東洋棉花,日綿実業,江商,丸紅飯田,伊藤忠の5綿商社はこのような情勢を察知して総合商社に転換していった。
1960年代からは輸出不振に加えて,低賃金を武器とする後発国からの輸入に圧迫されるようになり,60年代末には綿糸輸入が,70年代末には綿布輸入がそれぞれ輸出を上回るようになった。業界では,67年の特定繊維工業構造改善臨時措置法に基づき過剰設備廃棄を実施したが,事態は好転せず,79年に告示された構造不況法に基づく安定基本計画に沿って,過剰設備廃棄に努めている。
→繊維工業 →綿織物
執筆者:高村 直助
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