マヌエル2世(読み)マヌエルにせい(英語表記)Manuel II Palaeologus

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「マヌエル2世」の意味・わかりやすい解説

マヌエル2世
マヌエルにせい
Manuel II Palaeologus

[生]1350
[没]1425.7.21.
ビザンチン皇帝 (在位 1391~1425) 。ヨハネス5世次男。 1373年副帝となり,テッサロニカを統治。 87年町がオスマン・トルコ軍に占領されると,首都コンスタンチノープルに帰り,その後スルタン,バヤジッドの宮廷にあった。 91年父が死んで,皇帝に即位。 99~1402年トルコ勢力に対抗するため西ヨーロッパの援助を取付けようと同地に旅行するが,失敗。アンカラの戦いでオスマン・トルコ軍がモンゴル族に敗れ,続く内乱により帝国小康を得た。しかし 22年スルタン,ムラト2世によって首都が攻略され,24年には再びトルコに進貢義務を負った。政治家としてのみならず,神学者,文学者としても名高く,主著『キリスト教擁護論』 Dialagos peri tēs tōn Christianōn thrēskeias pros tina Persēnのほかに哲学的,文学的,政治的,宗教的随筆,書簡集がある。帝国の終息目前に病を得,修道士マテウスとして死亡。

マヌエル2世
マヌエルにせい
Manuel II

[生]1889.11.15. リスボン
[没]1932.7.2. トゥイッケナム
ポルトガル王 (在位 1908~10) 。カルロス1世の次男。 1908年父王とその皇太子ルイス・フェリペが暗殺され,即位。しかし,10年 10月4~5日の共和革命で王制が廃止されたため,イギリスへ亡命,書誌学に没頭し,その地で没した。

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改訂新版 世界大百科事典 「マヌエル2世」の意味・わかりやすい解説

マヌエル[2世]
Manouēl Ⅱ Palaiologos
生没年:1350-1425

ビザンティン帝国の皇帝。在位1391-1425年。1373年から父帝ヨハネス5世の共同皇帝。帝国は1370年以来オスマン・トルコの支配下に入っていた。これを断ち切るため皇帝は西欧から軍事援助を得ようと試みたが失敗。ミストラでは哲人プレトンを中心として文芸復興運動も起きたが,ニコポリスの戦(1396)でキリスト教諸国が敗れると,ティムールのアナトリア侵入により一時オスマン・トルコの包囲が柔らいだ時もあったが,その重圧は増大する傾向にあった。
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367日誕生日大事典 「マヌエル2世」の解説

マヌエル2世

生年月日:1889年11月15日
ポルトガル王(在位1908〜10)
1932年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のマヌエル2世の言及

【フィレンツェ公会議】より

…しかし,14世紀末オスマン・トルコの圧力が強まるにつれて,ビザンティン帝国は西方から軍事援助を得る前提として,教会統一問題の解決に迫られた。マヌエル2世が1399‐1403年,軍事援助を求めてイタリア諸都市(ただしローマ入りせず),パリ,ロンドンを歴訪したが失敗に終わった後,1414年コンスタンツ公会議が開かれるや,神聖ローマ帝国の皇帝ジギスムントの招きに応じてクリュソロラスを派遣した。17年,同会議で教皇に選ばれたマルティヌス5世のもとで,両教会の接触が本格化し,統一のための新たな公会議について折衝が続いた。…

※「マヌエル2世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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