アメリカの喜劇俳優チーム。チコChico(1887-1961),ハーポHarpo(1888-1964),グルーチョGroucho(1890-1977),ガモGummo(1897-1977),ゼッポZeppo(1901-79)の5人兄弟で,父はアルザスから移住してきたユダヤ人の洋服屋,母はドイツから移住してきたボードビル芸人の娘。ニューヨークに生まれ育ち,母のもとでチコはピアノ,ハーポはハープ,グルーチョはボーイ・ソプラノを習得し,ミュージカル・チームとしてボードビルの世界に入り(まもなくガモは第1次世界大戦に応召して4人チームとなる),長い下積みの時代を送ったのち,1924年にブロードウェーにデビューし,ミュージカルでかつてない笑いのスタイルと各自独特の個性をつくりあげて評判を定着させた。そしてパラマウントへ招かれ,好評だった舞台の映画化《ココナッツ》(1929)と《けだもの組合》(1930)からレオ・マッケリー監督による傑作《我輩はカモである》(1933)まで5本の映画をつくり(これを最後にゼッポはマネージャーに転向し,チームは3人となる),その後は,アービング・タルバーグに招かれておもにMGMで《オペラは踊る》(1935)から《ラブ・ハッピー》(1949)まで8本,合計13本に出演した。
マルクス兄弟は虚構による真実らしさや常識的な論理を否定したコメディアンであり,そのギャグの本質は常識をくつがえした〈ナンセンス〉にあるといわれ,また,その〈不条理な〉スラプスティック喜劇は超現実的ともいえるアナーキーな特質によってスクリーンに生気をみなぎらせると評された。その真価をいちはやく認めた1人がイギリスのドキュメンタリー作家ジョン・グリアソンであったことは興味深い。《ラブ・ハッピー》を最後にチコが引退したあと,ハーポとグルーチョは個別に映画やテレビに出演し,もういちど3人を共演させるというビリー・ワイルダーの計画はついに実現しなかったものの,グルーチョの自伝的な回想録《グルーチョと私》(1959)や《グルーチョ書簡集》(1967)をはじめ,何冊かの評伝があいついで出版され,あらためて兄弟の人気が高まり,60年代の終りからその業績は世界的な再評価を得た。72年に,82歳のグルーチョは43年ぶりにニューヨークの舞台にもどってカーネギー・ホールでワンマン・ショーをやり,同じ年,カンヌ映画祭で特別賞を贈られた。
執筆者:柏倉 昌美
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…トーキーとともに登場した俳優たちは,しゃべくりにもマイムにも強いボードビリアンが多くなる。その筆頭は〈マルクス兄弟〉で,不況の世相を反映した,アナーキーで攻撃的なナンセンス・ギャグの数々は,公開当時はむしろ人々を当惑させたといわれるが,代表作《我輩はカモである》(1933)をはじめとするマルクス喜劇は近年見直され,その狂気じみたギャグの連続によって,若い観客の伝説的存在となっている。続く40年代の〈凸凹コンビ〉のバッド・アボット=ルウ・コステロ,50年代の〈底抜けコンビ〉のディーン・マーチン=ジェリー・ルイスは,いずれも初期に軍隊ものを作って人気を博したこと,また三枚目のほう(コステロやルイス)のイメージが幼児的であることにおいて共通している。…
…《カンターの闘牛師》(1932)などで示した喜劇の才能を認められて起用されたレオ・マッケリーLeo McCarey(1898‐1969)監督作品。しかし,レオ・マッケリー監督作品としてよりは,マルクス兄弟の映画としてよく知られる作品である。ヨーロッパのフリードニアという架空の国家を設定し,結果的に独裁政治と戦争の狂気,超愛国主義を痛烈に風刺したこの映画は,ヒトラーが権力を握った時期につくられたものであり,ドイツではマルクス兄弟がユダヤ人であることも手伝って第2次世界大戦後まで公開されず,またイタリアでもムッソリーニによって公開を禁止されたといわれる。…
※「マルクス兄弟」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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