翻訳|music hall
ビクトリア王朝時代(1837~1901)のイギリスで流行繁栄した、歌、踊り、寸劇、奇術などの大衆芸能を上演する施設をいう。フランスでは同様の英語綴(つづ)りでミュジコールと発音する。また類似のものにアメリカのボードビル・ハウスがある。
18世紀初頭から19世紀へかけてイングランド地方の小さなタバンtavern(居酒屋兼宿屋)において、テーブルについた客が酒を飲みながら演芸を楽しむタップルームtaproom(酒場になっている部屋)でのコンサートがその起源である。ロンドンでは1812年以降街路にガス灯が普及するに伴い、深夜歓楽を求める人々でにぎわいが倍増、タバンの規格を超えた精巧な舞台装置を備えた大規模な劇場もできた。都市人口の急増により娯楽の需要も強まったが、半面、劇場への規制も厳しくなり、1843年には大劇場内での飲酒や喫煙が禁止された。しかし音楽や演芸を上演するだけのミュージック・ホールのほうは許可されたため、それに便乗してタバンの経営者たちはこぞって隣接地に、別にミュージック・ホールを新設した。こうして19世紀後半にはミュージック・ホールの全盛期を迎え、歌手のマリー・ロイドをはじめダン・レノ、ベスタ・テイリー、アルベール・シュバリエらのスターが活躍した。
20世紀に入るとミュージック・ホールは大規模なバラエティ劇場に押されて勢いを失い、ついで1920年代後半から流行したトーキー映画に客を奪われるに至った。第二次世界大戦後はロンドンのウィンドミル・シアターなど、ごくわずかが残存したにすぎない。しかしかつてはぐくまれた芸の伝統は現在のミュージカルの舞台などに受け継がれている。
フランスでは18世紀にカフェ・コンセールcafé concertと称する類似のものがあったが、19世紀末に英語名がそのまま取り入れられ、レビューなどさらに多彩な演目を加え、独自の発展を遂げた。1869年にパリに開場したフォリー・ベルジェールをはじめカジノ・ド・パリ、ムーラン・ルージュなどは観光の名所として世界的に有名になり、ミスタンゲット、モーリス・シュバリエなど多くのシャンソンやレビューのスターを育て上げた。ことにムーラン・ルージュにおけるカンカン踊りはあまねく人の知るところとなり、フランスの国民性に根ざした独特のミュージック・ホール文化を築いたが、現在は往年の活気はみるべくもない。
日本では第二次大戦後の1952年(昭和27)3月に東京・有楽町の日本劇場5階に開場した日劇ミュージック・ホールがこの名を用いた最初とされているが、実際はストリップショー専門の単なる小劇場で本来のものとはいささか趣(おもむき)を異にする。
[向井爽也]
『秦豊吉著『演劇スポットライト』(1955・朋文堂)』
19世紀後半から20世紀初頭にかけてイギリスで盛んに行われた大衆芸能,またそれを上演する場所。18世紀にパブで客をもてなすために歌を歌ったりしたのが起源で,しだいに複雑化した。1852年,イギリス最初の専用のホールとしてノートンCharles Nortonがロンドンに開いたカンタベリー・ホールCanterbury Hallは,客が飲食をとるために椅子とテーブルを並べた部分と舞台とをもっていた。これ以後,同種のホールが全国につくられた。出し物は親しみやすくて感傷的であったりコミカルであったりする歌や踊り,滑稽なコントなどが中心であったが,ときには奇術,アクロバット,本格的なバレエ,動物の芸なども加えられた。出演者はそれぞれ得意の芸をもち,例えばマリー・ロイドMarie Lloydは下町風できわどい歌,小男のリトル・ティッチLittle Tichは巨大な長靴をはいた踊り,ベスタ・ティリーVesta Tilleyは男装,ハリー・テートHarry Tateは種々のスポーツやゲームに関するコントで知られた。第1次大戦ころからラジオや映画に押されて衰え始め,その後テレビの普及で完全に消えてしまったが,ミュージック・ホール風の芸はイギリスのパントマイムやミュージカルに伝えられている。ほかに同時代のフランスでもイギリスのものを模してミュージック・ホールが建てられ,1869年開場のフォリー・ベルジェールFolies-Bergères,89年開場のムーラン・ルージュなど,パリのホールが人気の中心となった。アメリカにも類似の芸能があり,ボードビルと呼ばれる。
執筆者:喜志 哲雄
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…しかし皮肉なことに,シェークスピア劇はH.アービングやエレン・テリーのような名優の演技に支えられて,この時代にもはなはだ人気があった。他方この時期には,歌や踊りや奇術などを雑然と並べたミュージック・ホールや,伝奇的内容を歌や踊りで綴り,風刺性を加えたパントマイムなど,イギリス独自の大衆芸能も成立した。1870年代から90年代にかけて,W.S.ギルバートの脚本と詞,A.S.サリバンの曲によって発表された,〈サボイ・オペラ〉と呼ばれる一連のオペレッタも人気を集めた。…
…聖書には7枚のベールで踊ったというサロメの話があり,日本でも《古事記》に天照(あまてらす)大神が天岩屋戸にかくれたとき,天宇受売(あめのうずめ)命が〈胸乳(むなち)を掛き出で,裳緒(もひも)をほとに忍(お)し垂れ〉て踊ったとある。このように女性が裸を見せる演芸は古い歴史をもっているが,現代のストリップは19世紀のイギリスのミュージック・ホールから始まったといわれている。19世紀には都市に膨大な人口が集中したので,都市の娯楽が発達し,酒場で行われていた演芸は独立して,ミュージック・ホールがつくられるようになった。…
…一方,19世紀後半から20世紀初期にかけて,資本主義の成熟に伴って労働者の生活が安定度を増し,余暇を娯楽に費やす時間的・経済的余裕が生じたのに対応して,民俗音楽から変化したワルツ,ワンステップなどの社交ダンスの音楽が,ギターやアコーディオンを含むバンドで演奏されるようになる。またパリやベルリンのキャバレー,カフェ,レビュー小屋などではシャンソンが盛んに歌われ,ロンドンではミュージック・ホールで寸劇や踊りとともに多くの歌手たちが人気を集め(1868年にイギリスには500を超えるミュージック・ホールがあった),アメリカでは1880~90年代から,楽譜出版業者たちが流行歌を作り出すための宣伝合戦を展開することが盛んになった。
[植民地のポピュラー音楽]
先進資本主義諸国の都市大衆文化としてのポピュラー音楽は,初期のシャンソンやアメリカのフォスターの作品に見られるように,クラシック歌曲の通俗版としての性格をもち,歌い手も美しい声ではっきりと歌うのが普通だった。…
…同じく先行芸術であるオペレッタと形式的には酷似しているが,題材の点でミュージカルのほうが庶民的で現実的である。他方,イギリスではミュージック・ホール,アメリカではミンストレル・ショー,バーレスク,ボードビルなどの大衆芸能にも依存して発達したが,これらの芸能が個々の出演者の芸や個々の場面によって観客に訴えたのに対して,ミュージカルは作品全体の魅力をも重視し,一貫した物語をもつ。この違いは,初期のミュージカルと並行して発展した芸能であるレビューと比べたときにも認められる。…
※「ミュージックホール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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