日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムーラン・ルージュ」の意味・わかりやすい解説
ムーラン・ルージュ
むーらんるーじゅ
Moulin Rouge
(1)パリ、モンマルトルのクリシー通りに1889年に建てられたダンスホール。フランス語で「赤い風車」の意で、屋上に取り付けられた大きな赤い風車に由来する。当地で万国博覧会が開かれたのを機に観光客の吸引を目的として建設したもので、客に踊らせると同時にアトラクションとして各種のショーを上演したが、なかでもフレンチ・カンカンとよばれる陽気でエロティックな踊りが人気を博し、名物となった。またロートレックが1891年にポスターを描いたのをはじめ、場内の雰囲気を描写した作品を多く発表したため、いっそう有名になった。1903年に内部を改装、小劇場形式となり、レビューや各種のショーを上演、ミスタンゲット、モーリス・シュバリエなどのスターが輩出したが、1915年に全焼、1918年にミュージック・ホールとして再建された。1924年に隣接してダンスホールが設けられたが、今日一般にムーラン・ルージュといわれているのは、このBal du Moulin Rougeのほうで、往年の華やかさには欠けるものの、いまだにカンカンなどのレビューが上演され、観光名所となっている。本来のミュージック・ホールのほうは1929年に映画館に転向した。
(2)東京・新宿の新宿座に1931年(昭和6)に旗揚げされた劇団。パリのムーラン・ルージュの名を模したもので、創立者は浅草オペラ出身の佐々木千里(せんり)(1891―1961)。ここで上演された新感覚の喜劇は浅草あたりの軽演劇とは異なり、学生やサラリーマンなどインテリ層の人気を集め、劇界に新風を吹き込んだ。1944年には作文館と改称、1945年一時松竹の経営に移るが戦災で焼失、1946年(昭和21)劇団小議会として復活、翌1947年旧名に戻ったが、経営難のため1951年に解散。創立以来の公演数は通算500回、その間斎藤豊吉(とよきち)(1903―1976)、伊馬春部(いまはるべ)、阿木翁助(あぎおうすけ)(1912―2002)、中江良夫(1910―1986)らの劇作家、有馬是馬(ありまこれま)(1906―1963)、明日待子(あしたまつこ)(1920―2019)、左卜全(ぼくぜん)(1894―1971)、森繁久弥(もりしげひさや)らの俳優が輩出した。
[向井爽也]