日本大百科全書(ニッポニカ) 「モンケ・ハン」の意味・わかりやすい解説
モンケ・ハン
もんけはん
Möngke Qaran
(1208―1259)
モンゴル帝国第4代皇帝(在位1251~59)。廟号(びょうごう)は憲宗。チンギス・ハン遊牧軍の大半を継承したトゥルイの嫡長子としてオゴタイ政権でも重んじられ、35年の西征にはバトゥと並ぶ準主将格で参加。キプチャク連合やアス集団を撃破して手兵とし、のち両族が元(げん)朝の近衛(このえ)軍団ともなる基を開いた。定宗グユクがバトゥの刺客に倒れると、亡夫トゥルイの大封を守る母ソルコクタニ・ベキの尽力と、西征以来の盟友で母方でも従兄弟(いとこ)関係になるバトゥ以下のジュチ家諸王の強力な支援によって即位し、反対したオゴタイ、チャガタイ両統を徹底的に弾圧した。同母弟フビライを東の中国方面に、フラグを西のイラン方面に、アリク・ブハを本土留守に配置して強力な兄弟政権を目ざし、新しい徴税機構や人口台帳をつくって庶政一新を図ったが、フビライと不和となり、フビライの任務であった中国経略に自ら出軍した。しかし南宋(なんそう)領四川(しせん)の軍営で急逝した。
[杉山正明]