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中国、唐朝第11代の皇帝(在位805~820)。姓名は李純(りじゅん)。病父順宗を弑(しい)し宦官(かんがん)倶文珍(ぐぶんちん)らに擁立されて即位した。安史の乱後、藩鎮の勢力が強まり中央の威令の行われぬ状態を改めるのに精励し、直轄の禁軍を強化し、裴(はいき)の税制改革などによって軍費の充実を図り、西川、河東、淮西(わいせい)以下諸藩を平定して帝の統制に服せしめ、中興の英主とうたわれた。その治世は韓愈(かんゆ)、白居易ら文人の活躍で、元和の盛世として知られる。後嗣争いにより宦官陳弘志(ちんこうし)らに暗殺された。
[池田 温]
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「モンケ(蒙哥)」のページをご覧ください。
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…この通商協定がホラズム国側の背信によって破られたとき,平和裏の安定成長を期待していたモンゴル帝国は態度を一変して,西域大遠征を敢行し,以後3代にわたる東西経略をへてようやく一段落する。 すなわち第2代オゴタイ・ハーン(太宗)の治世にはロシア諸侯国が服属し金王朝および蒲鮮万奴(在位1215‐33)の大真国が併合され,続く第4代モンケ・ハーン(憲宗)の治世にはアッバース朝の討滅と高麗,西蔵,安南の内属が決定し,ついに西は地中海から東は日本海にわたる帝国最大の版図が実現されることになる。この間,太祖は広大な領地を割いてアルタイ山以西の草原に諸子(長男ジュチの嫡子バトゥ,次男チャガタイ,三男オゴタイ)を,興安嶺左右の地には諸弟(次弟カッサールの諸子,三弟カチウンの諸子,四弟オッチギン)を分封し,ここにハーンを頂点とするモンゴル朝廷は一族諸王を頂く遊牧封建諸侯国(ウルス)を左右に率いて南方に征服した定住文化地域(中国,ウイグリア,ソグディアナ)を直轄領とする大モンゴル帝国の支配体制を整えたわけである。…
…トゥルイの長子。憲宗は廟号。フビライとフレグ(フラグ)の兄。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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