大理(読み)ダイリ(英語表記)Dà lǐ

デジタル大辞泉 「大理」の意味・読み・例文・類語

だいり【大理】[地名]

中国雲南省北西部の都市。大理石の名産地。代の南詔なんしょう国、代の大理国の首都。ターリー
937年、タイ族段思平が中国雲南省に建てた国。1254年、フビライ=ハンに滅ぼされた。

だい‐り【大理】

《「たいり」とも》
根本にある道理
中国古代の官名。追捕ついぶ・糾弾・裁判・訴訟などをつかさどった。
検非違使けびいし別当唐名
刑部省ぎょうぶしょう唐名

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精選版 日本国語大辞典 「大理」の意味・読み・例文・類語

だい‐り【大理】

  1. 〘 名詞 〙 ( 「たいり」とも )
  2. [ 1 ]
    1. 大きな道理。根本のすじ道。
      1. [初出の実例]「師子吼者。自宣大理怖畏」(出典:勝鬘経義疏(611)序)
      2. 「性は善也と孟子に云へるは、すべての大理なるべし」(出典:わらんべ草(1660)二)
      3. [その他の文献]〔荘子‐秋水〕
    2. 中国古代の官名。追捕(ついぶ)・糺弾(きゅうだん)・裁判・刑罰などのことをつかさどるもの。
      1. [初出の実例]「今昔、河南に元の太宝と云ふ人有けり。貞観の間に、大理の丞として有り」(出典:今昔物語集(1120頃か)九)
      2. [その他の文献]〔淮南子‐主術訓〕
    3. 刑部省(ぎょうぶしょう)の唐名。
      1. [初出の実例]「刑部卿〈刑部省〈略〉大理〉」(出典:拾芥抄(13‐14C)中)
    4. 検非違使別当の唐名。
      1. [初出の実例]「友をよびぐして、金をば看督長(かどのをさ)にもたせて、薄打具(はくうちぐ)して、だいりの許へ参りぬ」(出典:宇治拾遺物語(1221頃)二)
  3. [ 2 ]
    1. [ 一 ] 中国、雲南省西北部の都市。七世紀から一〇世紀はじめの南詔国と、続いておこった大理国の首都。付近は大理石を産する。
    2. [ 二 ] 九三七年、南詔の通海節度使、タイ族白蛮出身の段思平が建てた国。宋に朝貢。一二五四年にフビライに滅ぼされた。

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改訂新版 世界大百科事典 「大理」の意味・わかりやすい解説

大理 (だいり)
Dà lǐ

中国,今の雲南省大理付近にタイ族白蛮に属する段氏が建てた国。937-1254年。雲南省西部の大湖たる洱海の西岸に位置する大理地方には,古来から白蛮と称される種族が定住し,唐代には南詔王国が出現して唐および吐蕃(とばん)と外交関係を結んでいた。10世紀初頭,唐朝が王朝末期の混乱状態に陥っていたころ,南詔王室の蒙氏が衰えて配下の権臣たちが互いに王権を奪い合った末,937年(大明7)にいたり,段思平が大義寧国を号した楊氏から王位を奪い,大理国を建て,大理城に都した。以後,彼の子孫が代々王位につき,11世紀の末に2年ばかり権臣の高昇泰によって奪されたが,段氏によって再興され(後理国ともいう),合わせて22代,310余年つづき,元の憲宗(モンケ・ハーン)がつかわしたフビライの率いるモンゴルの大軍によって1254年(天定3)に滅ぼされた。

 大理国の疆域は南詔国とほぼ同じで,8府4郡37部を管轄していた。宋朝が,金沙江を境として,雲南征服への意欲を示さなかったため,大理国は外部勢力の脅威をうけずに国内の平和を維持することができ,後理国になってからは宋朝にしばしば遣使入貢し,1117年(文治8)には雲南節度使大理国王に冊封された。この地方の特産品として〈大理刀〉と呼ばれた宝刀や雲南馬が宋の朝廷に献上され,象の皮で作られた甲冑たる〈象皮冑〉ともども広西に設けられた官営の博易場で交易された。大理国は南詔時代の仏教文化を継承してますます興隆せしめ,歴代の国王は仏寺の建立と仏像の鋳造に尽力し,しばしば宋から大量の仏典を求め,退位後は仏門に帰依する者が多く,民間では貧富を問わずどの家にも仏堂があり,老若を問わず数珠を手にしていたという。フビライによって滅亡させられた後に,〈カラジャン〉と呼ばれたこの地を旅行したマルコ・ポーロは,《東方見聞録》のなかで,産金量の多いことと巨大な大蛇の捕獲方法,住民たちが水牛の革で作った甲冑をつけ毒矢と毒薬を携帯していたことを特記している。
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大理[市] (だいり)
Dà lǐ

中国,雲南省西部の市。大理ペー(白)族自治州の主都。人口52万(2000)。洱海(じかい南岸にある州の経済・文化の中心。漢の武帝は洱海地域に葉楡(ようゆ)県を設置,8世紀南詔が支配し,太和城を築いた。城の南北に竜尾関,竜首関を設置,それぞれ下関上関と別称された。10世紀には大理国をへ,下関の地域は元以降太和県として発展した。1913年大理県に改称,51年鳳儀県をあわせ下関市とした。一時大理市と称したのち,62年下関市となり,83年再び大理市となった。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「大理」の意味・わかりやすい解説

大理(市)
だいり / ターリー

中国、雲南(うんなん)省西部の県級市。淡水湖である洱海(じかい)沿岸に位置する。大理ペー族自治州の政府所在地。人口60万9884(2013)で、そのうちペー族が7割近くを占める。漢代から開け、唐代の南詔(なんしょう)国、宋(そう)代の大理国の首都となった。モンゴル人によって大理国が滅ぼされたのち、元代は太和(たいわ)県、明(みん)・清(しん)代は大理府の府治が置かれた。点蒼(てんそう)山をはじめ周囲の山は大理石の埋蔵が多く、各所に採石場がある。弓魚(コイ科の魚)を主とする洱海の漁業も盛んである。広大線(広通(こうつう)―大理)、成昆(せいこん)線を経由して省都昆明(こんめい)と通じている。洱海南東岸には大理空港がある。南詔の太和城跡、南詔徳化碑、崇聖寺三塔、弘聖寺塔、感通寺、蝴蝶泉(こちょうせん)などの名勝・旧跡が多い。毎年3月に行われるペー族の市三月街(さんがつがい)が有名。

[青木千枝子・河野通博・編集部 2017年2月16日]


大理(国)
だいり

現在の中国、雲南省西部の大理を首都とした国(937~1253)。大理国は南詔(なんしょう)国の後身で、宋(そう)代約3世紀の間存続した。王族の段氏は洱海(じかい)西岸の白蛮(はくばん)系部族の出自とみられ、南詔国でも代々重臣に任ぜられている。始祖は南詔国の通海節度使段思平(だんしへい)である。その後14代150余年続いたが、権臣高昇泰(こうしょうたい)が一時王位を奪って大中国と号し(1094~96)た。段氏がふたたび国を復して後理(こうり)国となり、8代150余年を経たが、フビライ・ハンの率いる遠征軍に滅ぼされた。

[藤沢義美]

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百科事典マイペディア 「大理」の意味・わかりやすい解説

大理【だいり】

中国,雲南省西部の都市。ミャンマー・チベット方面に自動車路を通じ,交易が盛ん。付近から採れる結晶質石灰岩は大理石の名をもって知られ,また蒼山,【じ】海(じかい)などの景勝地をひかえる。古代の大理国の中心地。61万人(2014)。
→関連項目雲貴高原雲南[省]

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旺文社世界史事典 三訂版 「大理」の解説

大理
だいり

中国雲南省北西部にある都市
雲南省からチベット・ビルマに通じる交通の要衝で,経済の中心地。漢代の西南夷の地。唐代の8世紀から10世紀初めまで南詔 (なんしよう) の都となり,10世紀半ばごろ,タイ系の段氏がここに都を定め,大理国を建てて宋に朝貢。13世紀に元のフビライ=ハンに敗れ,以後は中国の版図にはいった。毎年3月には付近の住民の交易場となったので,「三月街」の名がある。

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普及版 字通 「大理」の読み・字形・画数・意味

【大理】たいり

大治。

字通「大」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の大理の言及

【雲南[省]】より

…南詔の時代,成都方面から漢族の子女や職人を集め手工業を振興させるなど,白蛮をはじめ各少数民族は直接,間接に漢文化を吸収し,またみずからの文化を発展させた。902年南詔が崩壊したあと,937年段思平によって大理国が建てられた。大理国は南詔とほぼ同じ地域を治めたが,この間,漢族のペー族との融合が進むと同時にペー族の漢化がさらに進んだ。…

【ペー族(白族)】より

…中国の少数民族の一つ。雲南省の洱海西岸に開けた大理盆地および洱源,剣川,鶴慶などに聚居し,大理ペー族自治州を形成する民族。昆明,元江,南華,麗江などにも分布する。…

※「大理」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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