ラウジッツ文化(読み)ラウジッツぶんか

改訂新版 世界大百科事典 「ラウジッツ文化」の意味・わかりやすい解説

ラウジッツ文化 (ラウジッツぶんか)

前13世紀から前4世紀にかけて,現ポーランド領からチェコスロバキア領の北部を中心に分布していた,青銅器時代中期から鉄器時代初めにあたる文化。ラウジッツLausitzの名称は,19世紀中ごろにドイツのR.フィルヒョーが低ラウジッツNider-Lausitz地方の墓地遺跡出土の土器の型式名としてその地名を採用したことに始まる。この文化を残した人たちは,麦類や豆類の耕作と各種家畜飼養を生業とし,青銅製の斧,鎌,剣,装身具,さらに容器類などを製作使用していたが,前7~前6世紀ころから鉄器の製作使用が普及する。集落遺跡としては,河川沿いの丘陵上に営まれた大規模なものがあるが,発見されている遺跡の多くは墓地で,小石室や骨壺に火葬骨を納めた墳丘墓が,ときには数千基集まって墓地を形成している。遺物もこれら墓地の副葬品が多いが,ときには1基で60個にも達することがある土器の副葬が特色である。後期になると,土塁や濠など防御施設を備えた城塞が出現し,このころから軍事的緊張状態がこの地方に生ずるようになったことをうかがわせて興味深い。

 ラウジッツ文化は,古くはゲルマン人,さらにトラキア人あるいはイリュリア人の残したものとされ,最近ではポーランドをはじめ東欧諸国の考古学者の多くはスラブ人説を強く主張するなど,転変を重ねてきた。その点でラウジッツ文化の研究史は,考古学で明らかにされた文化を残した人間集団を特定する難しさ,その際にあらわれる現代社会・政治情勢の影響などの問題を,典型的な形で露呈している。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のラウジッツ文化の言及

【スラブ人】より


【古代】
 先史時代のスラブ人について語りうるものは考古学的資料以外にはない。前1300‐前500年の中欧・東欧に見られる鉄器時代前期の〈ラウジッツ文化〉の担い手をスラブ人と考える説はすでに18世紀に提唱され,19世紀末から20世紀初頭にかけて再燃し,今日なおスラブ人考古学者のあいだでは有力であるが,推測の域を脱してはいない。 ギリシアの歴史家ヘロドトスは前5世紀の半ばに,ドニエプル川とブーグ川の上流域に住み,年に1度数日間オオカミに変身するというネウロイ人Neuroiのことを伝聞した。…

※「ラウジッツ文化」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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