一ノ宮村(読み)いちのみやむら

日本歴史地名大系 「一ノ宮村」の解説

一ノ宮村
いちのみやむら

[現在地名]一宮町一の宮

甲府盆地の東部、笛吹川支流の御手洗みたらし川扇状地に位置し、東は地蔵堂じぞうどう村、北は中尾なかお村、西は北都塚きたみやこづか村・末木すえき村、南は神沢かんざわ村。地名は甲斐国一宮浅間神社があることに由来し、一宮の御幸おみゆき道が末木村に向かう。天文二〇年(一五五一)二月五日の武田晴信判物(浅間神社文書)に「一宮郷荒間」とみえ、一宮郷より諸役免許の二〇貫文の地を同社に寄進している。これは前年の閏五月二三日に一宮に奉納した願書のとおり、小笠原長時を破り、信府(現長野県松本市)を手中に収めたことによるものである。弘治二年(一五五六)一一月一日、晴信は祖母崇昌院の十三回忌にあたり、菩提を弔うため郷内の一〇貫文を広厳こうごん院に寄進した(「武田晴信書状」広厳院文書)。天正一〇年(一五八二)一一月一七日には以清斎(市川元松)が郷内の一一貫文を本領であることを理由に安堵されている(「徳川家印判状写」記録御用所本古文書)徳川家康の代官伊奈忠次が同一七年に行った検地では、郷内の六五〇俵一斗二升が一宮の神領として認められた(同年一一月二三日「伊奈忠次神領証文」浅間神社文書)

一ノ宮村
いちのみやむら

[現在地名]富岡市一ノ宮

かぶら川が南東境を北流、北部を東流する丹生にゆう川が北東部で高田たかた川に合して東流する。東の七日市なのかいち村から抜ける下仁田しもにた道が村東で二筋に分れ、西の宮崎みやざき村に至る。村名は上野国一宮貫前ぬきさき神社が鎮座することにちなみ、「廻国雑記」文明一八年(一四八六)八月に「宮の市」とあるように、古くから同社の門前町として賑った。「和名抄」貫前郷に比定される。建武二年(一三三五)九月一六日の右京亮施行状(武州文書)で畠山入道西蓮の女源氏に安堵された地に「一宮内那波□田畠在家等」があり、応永八年(一四〇一)五月二日、関東公方足利満兼は管領畠山基国の申状に従い武州教念きようねん(現埼玉県大里郡川本町)に「一宮内田地四町、在家四間」の寄進状(教念寺文書)を寄せている。天正一〇年(一五八二)六月二九日、北条氏は一宮郷に禁制(写、松井文書)を下し、軍勢甲乙人の濫妨狼藉の停止とともに百姓の帰住を令している。

寛文郷帳には「市之宮村」とあり幕府領・旗本恒岡領・同仁加保領・同渡辺領の四給。元禄郷帳では旗本竹田領・貫前神社領・光明こうみよう院領が加わり、近世後期の御改革組合村高帳では幕府領が竹田領となり五給。

一ノ宮村
いちのみやむら

[現在地名]多摩市一ノ宮一―四丁目・一ノ宮

関戸せきど村の北西、多摩川南岸にある。北東は同川を隔てて中河原なかがわら(現府中市)、西は百草もぐさ(現日野市)。村域は平坦で田が多いという。村内を南北に通る道は古鎌倉道といわれ、多摩川の一ノ宮渡を経て中河原村へ通じていた(風土記稿)。一ノ宮の地名は武蔵国一宮である小野おの神社があることから付けられたと思われ、当初は小野神社の神領として設定されていたものと考えられる。源頼朝が治承四年(一一八〇)一二月一四日、武蔵国内の本知行地主職の安堵を行った際(吾妻鏡)小山田(稲毛)重成は偽って平太弘貞の所領である「多西郡内吉富并一宮蓮光寺等」の知行を安堵された。ところが翌治承五年四月二〇日、平太弘貞の申状により重成の虚偽が発覚して一宮などは弘貞に返付された(同書養和元年四月二〇日条)吉富よしとみ郷の別名として一宮・蓮光寺れんこうじが成立していたものであろう。

一ノ宮村
いちのみやむら

[現在地名]福知山市字一ノ宮

まき川の支流佐々木ささき川の下流部にあり、東は大呂おおろ村、西は笹場ささば峠を越えてはた(現天田郡夜久野町)に通じ、「丹波志」に「一ノ宮ヨリ夜久郷畑村エ越ス嶺ヲ笹(ママ)峠ト云、東ヨリ西越ス、竜ケ城ノ北ヲ越ス也、頂迄凡廿丁、下リ凡十丁、畑ノ内小畑ニ至ル」とある。南は村、北は下佐々木しもささき村に接する。

東北の野条のじよう喜多きた方面から西南常願寺じようがんじ新宮しんぐう田和たわにかけた構造線が、ほぼ南北の三岳みたけ谷の構造線と交わる所で、佐々木谷では最も広く水田も多い。出石いずし街道が通って交通の要衝でもあった。村名は氏神一ノ宮神社にちなむ。

中世には佐々岐ささき上山かみやま保の地、江戸時代は日ノ尾村の枝村。

一ノ宮村
いちのみやむら

[現在地名]下関市大字楠乃くすの・一の宮町一―二丁目

現下関市の中央やや東寄りの霊鷲りようじゆ山北西側に広がる。村の西部を楠乃川が北流する。北は秋根あきね村・勝谷しようや村、東は長府ちようふ町、西は伊倉いくら熊野くまの、南は椋野むくのふじたに高畑たかはたの各村と接する。長府藩領で西豊浦郡前支配に属する。

一ノ宮村は「日本書紀」神功皇后摂政前紀に「是に、軍に従ひし神表筒男・中筒男・底筒男、三の神、皇后に誨へて曰はく、我が荒魂をば、穴門の山田邑に祭はしめよとのたまふ(中略)則ち践立を以て、荒魂を祭ひたてまつる神主とす。仍りて祠を穴門の山田邑に立つ」とある「山田邑」の地にあたり、祠が長門一宮住吉すみよし神社であるとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報