中河原村(読み)なかがわらむら

日本歴史地名大系 「中河原村」の解説

中河原村
なかがわらむら

[現在地名]国府町中河原

ふくろ川上流域に位置する。同川左岸に本村集落があり、右岸には支村の大山根おおやまね源門寺げんもんじがある。集落の東端で上地わじ川が袋川に合流している。右岸を法美ほうみ往来が通る。拝領高は一六三石余、本免は七ツ三分。香河氏・前田氏・宮脇氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数四三(うち大山根五・源門寺七)。弘化四年(一八四七)の上構下札略写(県立図書館蔵)では朱高は一七八石余(うち畑高九石余)で、永荒を引き年開五二石余などを加えた都合高は二四八石余。物成高は一七四石余(ただし加損米九石余)で、藪役銀は二五匁。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高二一四石余、竈数四五。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]南区吉祥院きつしよういん中河原〈里北さときた町・里西さとにし町・里南さとみなみ町・西屋敷にしやしき町〉・吉祥院内河原うちがわら大河原おおがわら町・前河原まえがわら町・みや西にし町・みやひがし町・向田西むかいだにし町・向田東むかいだひがし町・流作りゆうさく町〉

北と東はほぼ西庄にしのしよう村、南は吉祥院村枝郷新田村、西は桂川に接し、村の西端辺りを天神川が南北に通っている。

平安京の条坊では右京九条三坊の一部と同四坊のほとんど全域にあたる。近世に至るまでの村の経緯は不詳だが、若宮八幡宮文書に、「六条八幡宮領山城国葛野郡内中河原田地六町六段」が、足利義満によって応永六年(一三九九)八月四日に安堵されたことを示す御判御教書があり、郡境が時代によって多少の変化があることを考慮して、この「中河原田地六町六段」を、中河原村の前史にかかわるものとすれば、室町期に若宮八幡(現東山区)領が村域内に存在したことになる。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]府中市住吉町すみよしちよう一―二丁目・同四―五丁目・分梅町ぶばいちよう五丁目・南町みなみちよう三丁目

四ッ谷よつや村の東、多摩川北岸に位置し、中央部を南北に縦断する鎌倉街道(相州への道)に沿って集落が形成される。南は多摩川を隔て関戸せきど一ノ宮いちのみや両村(現多摩市)。応永二二年(一四一五)の鎌倉鶴岡八幡宮若宮の最勝王経講読の料所として「吉富内中河原村」がみえる(鶴岡八幡宮社務職次第)。また一五世紀中葉の鶴岡八幡宮供僧の記録である香蔵院珎祐記録(国学院大学図書館蔵)によると、吉富よしとみ(関戸郷ともいう)内六ヵ村のうちに中河原があり、武士の入部によって鶴岡八幡宮の支配が脅かされていたことがわかる。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]津市中河原・住吉すみよし町・高洲たかす町・末広すえひろ

塔世とうせ(安濃川)岩田いわた川に挟まれた三角洲地帯の中央に位置し、南は乙部おとべ村に接する。低湿な塩田地帯の中のやや高燥な地に家居し、付近には条里制が実施されていたらしく、康平五年(一〇六二)の民部田所四天王寺領勘注状(四天王寺蔵)に「二条二中村里」とあるが、「中村里」は近年の条里復原図などからも塔世川の分流の間に挟まれた中河原村に比定できよう。室町期に長野氏の与力被官衆となって活躍した乙部氏は中川原氏ともいい、中河原村と乙部村をともに所領としていたと考えられる。


中河原村
なかごうらむら

[現在地名]智頭町新見にいのみ

新見にいみ川を挟み新見村の対岸南方に位置する。拝領高は四六石余。天明六年(一七八六)の智頭郡下札帳(石谷家文書)によると朱高五一石余、毛付高九二石余、本免五ツ四分、同年の物成高四六石余、ほかに川役米五升・藪役銀四分五厘が課されていた。「因幡志」では家数一六。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳によれば生高九〇石余、竈数一〇。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]多賀町中川原なかがわら

つき村の北西、多賀村の北にあり、村の北方をせり川が流れる。文明一五年(一四八三)四月二五日の多賀社衆議事書(多賀大社文書)では、河瀬菅兵衛の非をなじった社中衆議に中河原掃部助久家・同三郎高家が名を連ね、永正四年(一五〇七)一一月二八日の多賀社社家神官中定書(同文書)でも、四名の中河原姓の署名者がみえ、いずれも当地を拠点とする有力者で、多賀社に勤仕していたと思われる。天文五年(一五三六)一〇月をはじめとし、同一六年七月・同一七年一二月・永禄一一年(一五六八)一二月など数点の売券が残るが(専行寺文書)、収穫物を現場で分け合う刈分け(作分・山分・半作とも)とする例が目立つ。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]小山市中河原

鬼怒川西岸に位置し、南西を川が蛇行して流れる。南は下総国みやした村・小塙こばな村・大谷瀬おおやぜ(現茨城県結城市)、北は福良ふくら村。中川原村とも書く。永徳元年(一三八一)七月一八日中河原において小山義政軍と関東府軍との合戦が行われた(同二年二月「烟田重幹着到状」烟田文書)。当地は中世末期には結城氏の支配下にあり、高椅たかはし神社とも深いかかわりをもっていた。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]茅野市宮川みやがわ 中河原

茅野ちの村の西北にあり、かみ川とみや川に挟まれ、御柱道おんばしらみち杖突道つえつきみちに沿う。

中河原地籍はもと横内よこうち村の南部に含まれ、寛永四年(一六二七)の上川の大洪水により生れた新しい上川と古川ふるかわ(旧上川)との荒地を開発した新田村で、「中河原旧記」によれば「寛永十癸酉年右永引場所横内村ニ而開発難出来ニ付天久院様見立被遊候小沢主膳様ニ荒所開発被仰候」とあり、「諏訪郡諸村旧蹟年代記」の横内村鎮守社の勧請の項に「中河原村ハ寛永十七年ニ別ル」とある。前記の「中河原旧記」には寛文一一年(一六七一)御竿入高一八九石六七六、開発の者苗字帯刀蒙御免とあり、元禄一五年(一七〇二)一二月の信濃国郷帳には高二〇七・一四二石とある。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]池田市中川原なかがわら

木部きのべ村の北東にありほそ郷の一村。村の西部を久安寺きゆうあんじ川が南西流し、その左岸を余野よの(摂丹街道)が通る。村域東部は五月さつき山の北側にあたる山地で、耕地や集落は西部に展開。嘉禄二年(一二二六)一一月一五日の土師某田地売券(勝尾寺文書)に「在摂津国豊島北条仲川原村十九条二里十六坪内西依也」とみえ、この「仲川原村」を当地にあてる説もあるが、五月山より南の地で当地ではないとの見解が強い(池田市史)。康正二年造内裏段銭并国役引付によると、代官と思われる安東平左衛門が中川原段銭として一貫文を進納、また「後法興院雑事要録」の文明一一年(一四七九)条によると、当地に摂関家が得分権を有しており、代官池田若狭守が二〇〇疋を進納している。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]松前町中川原なかがわら

重信しげのぶ川左岸に沿う現松前町北東の村。同川の氾濫によって砂礫の堆積した土地に開拓が進められてできた村と考えられる。村内地名に這上はいがり土手どてのうち・新田しんで新開しんがい中新開なかしんがいなどがある。すぐ南に徳丸とくまる村の河原かわら集落があるので、ここを中河原とよんだという。「予陽河野家譜」に元亀三年(一五七二)八月、中国勢八千余騎が来襲し、大野直昌・土居通利らの伊予軍は中川原・大間だいまにたむろする敵軍に勝ち、逃げるを追い北河原に至ったという記事がみえる。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]茨木市中河原町・西福井にしふくい二丁目

こおり村の北、勝尾寺かつおじ川の南岸にあり、村の東端近くで佐保さほ川と勝尾寺川が合流、中央部で東西方向に通る西国街道と、南北方向に走る亀山かめやま街道が交差する。慶長一〇年(一六〇五)の摂津国絵図に村名がみえる。元和初年の摂津一国高御改帳によると大和小泉藩片桐貞隆預の幕府領で、「中河原 福井村之内」として六二石余が記されているので、中世には福井庄に含まれていたとも考えられる。寛永一〇年(一六三三)から慶安二年(一六四九)までは山城勝竜寺藩領。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]熱塩加納村米岡よねおか

南流するにごり川を挟んで百木田中ももきたなか村の西に位置する。古くは南方岩尾いわお村と一村であったが、延宝八年(一六八〇)同村から分村した(寛政元年「万覚書」三浦家文書)。明治期以降は中川原と記すようになった。北方、濁川上流に端村市野々いちのの(市野・市ノ野・一ノ野などとも記す)がある。同所で濁川右岸から取水する半在家はんざいけ(太郎堰ともいう)は当村・岩尾村・半在家村などの田地を潤した。享保一六年(一七三一)の五目組村々書上(福島県史)では高一四一石余、反別は田方一〇町四反余・畑方二町五反余、家数・人数は本村一三軒・五四人、市ノ野五軒・一〇人、馬四を飼育していた。


中河原村
なこうらむら

[現在地名]佐伯市狩生かりう 中川原なかがわら

代後だいご浦の北、かすみヶ浦の最奥部に位置。慶長期(一五九六―一六一五)には戸穴ひあな村に属した。慶長六年六月の戸穴村検地指出帳(佐伯藩政史料)にみえる「中浦」に比定され、文禄二年(一五九三)の検地高は田高四石余・畑高一石九斗余・屋敷高三斗余、うち永荒一石余。慶長六年五月の戸穴村検地指出帳(同史料)によれば、同二年の検地高一一石余。その後の郷帳類では海崎かいざき村に含まれたと思われる。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]倉吉市中河原

生田いくた村の南、小鴨おがも川の左岸に位置する。拝領高は二八五石余、本免は四ツ七分。唯氏、倉吉組士の番氏・小谷氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高三四〇石余、竈数四〇余、村内に荒神を祀る。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三五七石余、竈数七二。藪役銀一〇匁、山役米一石二斗が課されていた(藩史)。正徳五年(一七一五)には倉吉御蔵が火災に遭った際の火消人夫四人が割当てられている(在方諸事控)。万延二年(一八六一)当村平兵衛は鳥取城下かわら町木屋善助の所持していた練油・蝋燭商売の両株を譲り受けて同商売を行いたいと願出て許されている(同書)


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]富士市中河原

加島津田かじまつた村の南、加島青島かじまあおしま村の東に位置する。元和元年(一六一五)富士川の流路変更により川跡および近傍荒野が開発されて成立したという。寛永改高附帳に中川原村とみえ、田方一三八石余・畑方五石余。元禄郷帳では高二二〇石余。東海道吉原よしわら宿の加宿村とされ伝馬役を負担し、江戸時代を通じて幕府領であった。天保一五年(一八四四)の村々様子大概書(江川文庫蔵)によれば、高二二〇石余、反別田二二町五反余・畑四反余。


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]富山市中川原なかがわら中川原台なかがわらだい

富山城下の東方に位置し、北は秋吉あきよし村。中川原村とも記される。正保郷帳では高三四一石余、田方二五町七反余、新田高二六石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印によると草高四八五石、免五ツ一歩、小物成は野役一八匁、明暦二年(一六五六)の新田高二六石があった(三箇国高物成帳)


中河原村
なかがわらむら

[現在地名]松阪市井口中いぐちなか

井口村の東にあり、はらい川の左岸にある。北は六根ろつこん村、南は高木たかき村に続く。「神鳳鈔」に「中河原御薗」とある。「飯野郡井口中村誌」(松阪市役所機殿出張所蔵)によれば、古くは麻続機殿の領地であったが、南北朝期に仁木義長に押領され、応仁の乱後、北畠氏に属したとされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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