イタリア・オーストリア戦争(読み)いたりあおーすとりあせんそう

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

イタリア・オーストリア戦争
いたりあおーすとりあせんそう

イタリア統一の過程における3回にわたる対オーストリア戦争。イタリアでは普通「独立戦争」Guerre di Indipendenza Italiana(イタリア語)とよぶ。

〔1〕第一次独立戦争(1848~49)。1848年3月、ウィーン蜂起(ほうき)とメッテルニヒ失脚のニュースが伝わると、オーストリアの支配下にあったロンバルド・ベネトの各地で反乱が起こり、ミラノでは5日間の市街戦によってオーストリア駐留軍が撃退され、ベネチアでは共和制が宣言された。サルデーニャ王国のカルロ・アルベルト王はミラノの反乱者からの訴えと自国内の世論の圧力とに押されて3月23日参戦を決意し、ただちにロンバルディアへ進撃を開始した。この戦争は最初、教皇ピウス9世からも支持され、両シチリア、トスカナの両国からも援軍を得たため、真に国民的な戦争としてイタリアに有利に展開したが、まもなく教皇に続いて両シチリアも戦線から離脱したので、サルデーニャ軍は士気を失い、7月クストッツァの戦いで敗北し、アルベルトは休戦を余儀なくされた。49年3月アルベルトは急進派の圧力により戦いを再開したが、まもなくノバラで大敗し、同月28日に退位した。第一次独立戦争は結局失敗に終わった。

〔2〕第二次独立戦争(1859)。サルデーニャ王国の首相カブールは、オーストリアの国際的孤立と英仏の援助によってイタリアの独立を達成しようと考え、フランス皇帝ナポレオン3世に接近し、1858年プロンビエールの密約を結んだ。フランスの援助を確保したサルデーニャ王国は、59年4月対オーストリア戦争を開始した。マジェンタ、ソルフェリーノの勝利はナポレオンの講和(1859年7月)にもかかわらず、中部の反乱を生み、ベネチアを除くロンバルド・ベネトをサルデーニャにもたらすことになった。60年、同王国は中部の併合を実現し、さらにガリバルディの南部征服によりイタリア統一を達成した。

〔3〕第三次独立戦争(1866)。1866年4月、ビスマルクのプロイセンと同盟を結んだイタリアは、同年6月から始まったプロイセン・オーストリア戦争に参加し、イタリア軍は海陸ともにオーストリア軍に敗れたが、プロイセンの勝利によりベネチアを獲得した。

[重岡保郎]

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山川 世界史小辞典 改訂新版 の解説

イタリア‐オーストリア戦争(イタリア‐オーストリアせんそう)

北イタリアのオーストリア支配からの解放を目的として,サルデーニャ王国とオーストリアの間で行われた戦争。第1次(1848年3月~49年3月)はサルデーニャ王国の敗北に終わる。第2次(59年4~7月)ではサルデーニャ王国が勝利し,イタリア統一に道を開いた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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