日本大百科全書(ニッポニカ) 「六月事件」の意味・わかりやすい解説
六月事件
ろくがつじけん
Journées de Juin フランス語
1848年6月、第二共和政下フランスのパリで起こった労働者を中心とする民衆蜂起(ほうき)。二月革命で成立した臨時政府は、労働者に労働権を約束し、国立作業場(国立工場ともいわれる)を設けて失業者の救済を図ったが、「労働の組織化」をはじめとする社会改革はいっこうにはかどらず、労働者の不満と不安は募るばかりであった。他方、同年4月の制憲議会選挙で、左派の社会的共和派が後退して閣外に去り、「執行委員会」とよばれる新政権は、おりからの財政難のもとで、10万人以上に膨れ上がった国立作業場への支出に苦しんでいた。加えて、5月15日の国会乱入事件に国立作業場労働者の一部が参加したことは、保守派議員の危機感を募らせた。議会の圧力に押された政府は、6月21日、国立作業場の25歳以下の労働者を軍隊に編入し、その他は地方の土木工事に赴かせるという布告を発し、さらにパリ居住3か月未満の者は退去すべしという命令を付け加えた。翌22日、布告の撤回を求める代表団の陳情が拒絶されたのち、労働者の怒りは爆発した。「パンか、銃弾か」と叫ぶ示威運動はまたたくまに拡大し、バリケードが次々に構築され、23日にはパンテオン広場からサン・ドニ門に至るパリ東部の街路をほぼ制圧した。これに対して議会は、アルジェリア征服で勇名をはせた将軍カベニャックに全権を委任し、蜂起の鎮圧を託した。24日、戒厳令を敷いたカベニャックは、寝返りのおそれのある国民衛兵を信用せず、地方から6万の正規軍を集結して、バリケードに直接砲撃するというかつてなかった軍事的対応を行った。24日夜から26日にかけて凄絶(せいぜつ)な戦闘が繰り広げられ、25日には和平の仲介にたったパリ大司教アッフルも銃弾に倒れた。市庁舎を脅かす勢いにあった反乱も、この日を境に退潮し、翌26日にはサンタントアーヌ街の攻防を最後に、鎮圧された。
この戦闘で、政府軍側に約1600人、反乱側に約4000人の死者が出た。約1万5000人が逮捕され、4300人がアルジェリア流刑となった。蜂起参加者は、一部で工場労働者も含まれてはいたが、その多くは伝統的な職人労働者や小商店員などであった。また、ブランキら著名な革命家たちはすでに獄中にあったため、この蜂起は、街区の名もない活動家たちを中心とした居住共同体の内部から、自生的に広がった点にも特色がみられる。この事件を境に秩序派がさらに台頭し、11月に制定された憲法では、労働権は消え去って、ブルジョア共和派と労働者・民衆との溝はいっそう深まった。それはまた、ルイ・ナポレオン登場の地ならしをする結果ともなった。
[谷川 稔]
『河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社)』▽『野田宣雄編『19世紀のヨーロッパ』(有斐閣新書)』▽『喜安朗著『パリの聖月曜日』(1982・平凡社)』▽『J・カスー著、野沢協監訳、二月革命研究会訳『1848年』(1979・法政大学出版局)』