繊維原料または繊維を加工して繊維製品を生産する工業。具体的には生糸を製造する製糸業,綿,化学繊維,羊毛,絹,麻などの糸を製造する紡績業,撚糸(よりいと)を製造する撚糸(ねんし)製造業,各繊維の糸から織物を製造する織物業(織物工業),ニット製品を製造するニット製造業,糸,織物などの染色,漂白などを行う染色整理業,綱や漁網を製造する綱・網製造業,レースや組紐(くみひも)などを製造するレース・繊維雑品製造業などがある。洋服などのファッション性の強い繊維製品については〈アパレル産業〉〈ファッション産業〉の項目を参照されたい。
日本における繊維工業の位置をみると,1995年の出荷額(化学繊維製造業を含む)は10兆7058億円で,製造業全体の3.5%にすぎない。1970年の比率7.5%に比べかなり低下している。生産量でみても,化学繊維,天然繊維ともに内需の停滞もあり80年ころから低下あるいは伸び悩み傾向にある。また輸出についても,韓国,台湾などの中進国および発展途上国の繊維工業が力をつけてきているため,中・下級品を中心に日本の輸出が停滞してきている。その反面,高級品を中心とする高付加価値製品,差別化製品の輸出は伸びている。今後の日本の繊維工業の方向としては,需要の多様化に対応した多品種少量生産と輸出の拡大に必要な高付加価値の高級品生産が考えられる。この方向の実現のために,生産構造の改善と技術開発を目ざす必要がある。
綿,羊毛,絹,麻といった天然繊維の糸や織物の生産は古くから行われていたが,近代的な工業生産が始まったのは,ヨーロッパにおいては産業革命によって種々の繊維機械が発明されてからである。日本においては明治に入ってからである。
日本においては,1867年(慶応3)に最初の機械紡績工場である鹿児島紡績所が薩摩藩によってつくられた。明治に入り,殖産興業の名のもと繊維工業の育成政策がとられ,72年(明治5)に富岡製糸場,79年に千住製絨所など官営の工場がつくられた。とくに,輸入が急増していた綿糸・綿織物の国産化は急務であり,政府は1878年に愛知紡績所,広島紡績所の設立を企画したほか,民間業者に対する機械の払下げ,機械輸入のための資金援助などによって綿紡績業の育成を図った。また1872年には東京に最初の民営紡績会社鹿島紡績所がつくられた。しかしこうした政府の育成策は必ずしも十分な効果をあげるに至らなかった。綿紡績業が本格的成長期に入るのは,82年に渋沢栄一が中心になって大阪紡績(東洋紡績の前身)を設立してからである。大阪紡績は錘数1万0500錘で,動力源として蒸気機関を導入するなど大規模,近代的なものであり,当初から好業績を記録し,規模を拡大していった。これに刺激されて86年に三重紡績(東洋紡績の前身),87年に東京綿商社(現,鐘紡)といった大規模紡績会社が相次いで設立され,国内生産力は大幅に増加した。しかしこの結果綿製品は供給過剰に陥り,90年に綿紡績業は初の不況を経験することとなった。
この不況を脱出するために,初の操業短縮が実施されるとともに,輸出市場の開拓に力が入れられた。この動きに合わせて,1894年に綿糸輸出税が,96年に綿花輸入税が撤廃され,綿糸の価格競争力が高まった。また,94年に勃発した日清戦争の結果,中国・朝鮮市場への綿糸輸出拡大が可能になり,97年には初めて綿糸の輸出額が輸入額を上回った。
一方,綿布はこの時期まだ輸入超過の状態が続いていたが,大手紡績会社による織布業の兼営が進んで,生産力は拡大していた。そして,1904年に始まった日露戦争の結果,満州(中国東北)の市場への進出が可能になったことによって,綿布の輸出も急増し,09年には輸出額が輸入額を上回るに至った。
このように綿糸,綿布の輸出は増加したが,生産能力の拡大が非常に急速なものであったため,供給過剰になりやすく,明治30年代から大正初めにかけて何回かの操業短縮が実施された。この操短の過程で企業の整理・統合が進み,大手紡績会社の独占度が高まった。また,大手会社どうしの合併も行われ,1914年には大阪紡績と三重紡績が合併し東洋紡績が,18年には尼崎紡績(1889設立)と摂津紡績(1889設立)が合併し大日本紡績(現,ユニチカ)が生まれた。
第1次大戦中には綿糸の輸出量がピークを迎え,以後逓減傾向で推移したのに対して,綿布の輸出は1914年の3億3700万平方ヤードが18年には10億0600万平方ヤードへと飛躍的に拡大し,金額ベースでも1917年に綿布輸出が綿糸輸出を上回るようになった。こうした綿布輸出の拡大は,中国向け輸出の大幅な増大と,欧米綿布の主要な輸出先であったイギリス領インド,オランダ領インドシナ市場への進出によってもたらされた。
第1次大戦が終わるとともに綿紡績業界は1921年から27年にかけて長期不況に突入した。不況下においても操業短縮は行われず,自由競争の状態が続き,大手会社の市場支配度はさらに高まった。大手会社では大戦中に得た資本蓄積をさまざまな形で投資した。まず第1に,生産コストの低い中国への資本進出を行い,現地紡績会社(在華紡)を設立した。第2に,新鋭機械の導入や作業の標準化による生産合理化,あるいは安価な綿花の大量買付けや混綿操作などを通して,生産コストを引き下げた。こうして大戦後停滞していた綿布輸出は回復に転じ,33年にはイギリスを抜いて世界第1位の綿布輸出国となった。
大戦中に蓄積された資本の第3の投下先はレーヨン工業(〈レーヨン〉の項参照)の分野であった。日本におけるレーヨン糸製造は1916年,米沢の鈴木商店系の東レザー(翌年,東工業と改称)の分工場,米沢人造絹糸製造所において始まった。18年同製造所は帝国人造絹糸(現,帝人)として独立した。この時期にレーヨン糸分野への新規参入が続いたが,新規参入企業の多くは第1次大戦後の不況によって消滅した。しかし帝人等の有力企業は技術の向上,生産の合理化を進めた。こうしたなかで,大正末ころから大手紡績会社によるレーヨン部門への資本投下が始まり,26年に大日本紡績が日本レイヨン(現,ユニチカ)を,倉敷紡績が倉敷絹織(現,クラレ)を設立した。また同年,三井物産が東洋レーヨン(現,東レ)を設立した。大手の参入と同時に既存企業の設備拡充も進み,レーヨン糸の生産能力は急速に拡大した。31年の金輸出再禁止に伴う円安を契機に輸出が増大,積極的な高橋財政による経済成長により内需も拡大し,生産量は急増,37年にはアメリカを抜いて世界一の生産国となった。また,綿花,羊毛の代替品となるレーヨン糸を短く切断したレーヨンステープルの生産も1931年以降始まった。
第2次大戦によって多大な損害を受けた繊維工業も,大戦後には,国民衣料の補給と経済復興に不可欠な輸出拡大の担い手として,その復活に期待がかけられた。1946年に商工省はGHQの意向を受けて〈繊維産業再建三ヵ年計画〉を策定したのに対し,翌年にはGHQから設備復元の中間水準(綿紡績400万錘,レーヨン年産15万t,スフ紡績50万錘)が指示され,これに基づいて設備復元が図られた。当初は,資金,資材,燃料不足等によって設備復元は円滑に進展しなかったが,49年ころまでにはほぼ完了した。また,戦前から続いていた配給統制,価格統制や設備統制も49年秋から50年にかけ全部撤廃され,繊維産業は新たな発展段階を迎えた。50年6月に勃発した朝鮮戦争を契機に内外需はともに空前の拡大を示し,製品価格の高騰もあって,51年春まで続く〈糸へん景気〉が到来した。たとえば51年のレーヨン糸の生産量が1949年に比べて2.1倍,レーヨンステープルが3.8倍に増加した。しかし,朝鮮戦争の終結とともに,まず綿紡績業が供給過剰となり操短が実施され,56年には新増設を抑え,既存の過剰設備を処理する目的で〈繊維工業設備臨時措置法(繊維旧法)〉が制定された。さらに輸出が急増していたレーヨンステープル分野でも設備操短が相次いだため,57年ころから化繊工業でも設備過剰に陥った。64年には繊維旧法の趣旨をさらに徹底させるために〈繊維工業設備等臨時措置法(繊維新法)〉が制定され,67年には過剰設備の処理と残存設備の近代化,企業の集中統合を目ざす〈特定繊維工業構造改善臨時措置法〉が制定された。
こうしたなかで,繊維産業成長の旗手となろうとしていたのが合成繊維(合繊ともいう)である。すでに1948年には半合成繊維アセテート繊維が工業生産を開始した。53年通産省で〈酢酸繊維工業育成対策〉を決定し,アセテート生産に助成措置がとられ,業界の努力もあって生産は順調に発展した。合成繊維に関しては,日本では戦前からナイロン,ビニロンを中心に研究開発が進められていたが,欧米に比べるとかなり遅れていた。このため,政府は1949年にビニロンでは倉敷レイヨン,ナイロンでは東洋レーヨンを育成企業に指定し,金融税制面で優遇措置を講じた。こうした政府の育成措置と企業側の努力によって,50年に倉レと大日本紡績がほぼ同時にビニロンの工業生産を開始し,51年には,東レがアメリカのデュポン社から技術導入してナイロンの生産を開始した。53年には〈合成繊維産業育成五ヵ年計画〉が策定され,57年度の合繊生産量1億ポンド,所要設備日産120tを目標に種々の助成策がとられた。日本の合繊生産はこれを契機に急速に拡大する。1954年には東洋化学が塩化ビニル繊維(単繊条エンビロン)の生産を開始し,55年には旭ダウ(アメリカのダウ・ケミカル社と旭化成工業の共同出資会社)と呉羽化成(呉羽紡績と呉羽化学工業の共同出資会社)の2社が塩化ビニリデンの本格生産を開始し,56年には帝人がテビロンの生産を開始した。さらに,57年以降アクリル繊維の企業化が相次ぎ,57年に鐘淵化学が,58年には日本エクスラン(東洋紡績と住友化学工業の共同出資会社)が,59年には三菱ボンネル(三菱レイヨン,三菱化成工業(現,三菱化学),アメリカのケムストランド社の共同出資会社)と旭化成が,それぞれ生産を開始した。また,ポリエステル繊維については,東レと帝人が共同でイギリスのICI社から技術導入し,1958年から相次いで生産を開始した。60年代になると,ナイロン,ポリエステル,アクリルという三大合繊の生産に後発企業が参入し,70年までには大手による主要合繊の生産体制が確立した。この間1965年には,企業参入による競争の激化でナイロンを中心に不況に陥り,相場は大幅に下落し,一部企業は自主減産を行った。この不況を契機に繊維メーカーの合併・提携が進んだ。66年には,日本レイヨン(略称,日レ)のポリエステル部門をもとに日レ,鐘紡,三菱化成,ニチボー(大日本紡績が1964年に改称)の4社が出資して,ポリエステル生産を行う日本エステルが設立され,同年東洋紡が経営不振に陥っていた呉羽紡を吸収合併した。また,69年にはニチボーと日レが合併してユニチカとなった。こうした再編成が進むなか,合繊はいちはやく不況から脱出し,新たな成長段階に入った。合繊生産高は1965年に38万tであったが,67年にはレーヨン,アセテートの生産高を上回り,70年には103万tと大台に乗せ,天然繊維全体の生産量を上回った。また,世界生産全体に占める日本の合繊生産量の比率も徐々に上昇し,70年には22%を占めるに至った。また合繊の輸出も増加し,1965年の11万tから70年には36万tに拡大し,世界の輸出高合計の25%を占めるに至り,世界一の合繊輸出国としての地位を確立した。
しかし,輸出の急増は他方において貿易摩擦を引き起こすことになった。71年のアメリカのニクソン大統領のドル防衛策発表(ニクソン・ショック)とそれに続く円の大幅切上げによって,輸出競争力は減退し,さらに翌72年に日米繊維協定が結ばれたことによって業界は大きな打撃を受けた(〈日米繊維交渉〉の項参照)。とくに合繊業界においてダメージが大きく,72年には初めての減産に追い込まれた。田中角栄内閣が成立すると,列島改造ブームによって需要が拡大し,業界は一時的に好況を呈した。しかし,73年の第1次石油危機以後は深刻な構造不況に陥り,75年から79年までは生産が増加したものの,それ以降は減少傾向にある。こうしたなかで,1973年に繊維工業審議会と産業構造審議会が出したビジョン〈70年代の繊維産業のあり方〉に基づいて,74年7月〈繊維工業構造改善臨時措置法(新繊維法)〉が成立し,垂直的グループ化による業界の構造改善が図られた。
また,合繊4品目(ポリエステル長・短繊維,ナイロン長繊維,アクリル短繊維)については,悪化した需給関係を改善するために,77年10月から6ヵ月にわたって通産省の指導による減産を行い,78年4月からは1年間にわたって不況カルテルに基づく操短を実施した。一方,短繊維紡績業(綿糸,スパンレーヨン糸および短繊維合成繊維紡績糸)についても,1977年4月から79年1月まで,および81年5月から6月まで生産制限,設備制限といった不況カルテルを実施した。さらに,〈特定不況産業安定臨時措置法(構造不況法)〉に基づいて,1978年10月に合繊安定基本計画を策定し,合繊4品目について平均17.4%の設備を廃棄し,82年3月に完了した。構造不況法が83年6月で期限切れになるのに合わせて,〈特定産業構造改善臨時処置法〉が施行された。同法に基づいて,合繊4品目の設備新増設が3年間(1986年6月まで)制限されるとともに,新たにビスコース短繊維製造業が特定産業に指定された。
執筆者:鈴木 明彦
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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…この理由は,軽工業のほうが少ない資本で興すことができ,また生産技術もあまり高度のものを必要としない場合が多いからである。日本の経済発展においても,明治時代に本格的な工業化が始まったとき中心的な役割を果たしたのは,軽工業,なかでも繊維工業である。1935年ころまでは,日本の製造業のなかで最も生産額が大きいのは繊維工業であり,次いで食料品工業であった。…
…日露戦争後には,それらはほぼ世界的技術水準に到達し,財閥系製鋼所の成立と相まって,造船業の自立化を達成し,鉄鋼自給率を上昇させたが,なお機械工業は一般的に低位にとどまり,鉄鋼自給率も低く,生産財および軍需品の多くを輸入に依存した。
[繊維工業の主導性]
第3に,それと対照的に繊維(紡織)工業が民間の工場制工業発達において主導的地位を占め,資本主義経済の基軸を構成していったことである。日本の繊維工業は綿業と絹業の二大部門から構成されていたが,工場制工業の発達を主導したのは綿業の紡績業と絹業の製糸業である。…
※「繊維工業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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