一戸村(読み)いちのへむら

日本歴史地名大系 「一戸村」の解説

一戸村
いちのへむら

[現在地名]一戸町一戸

馬淵まべち川東岸の河岸段丘上にあり、奥州街道が縦貫する。南は西法寺さいほうじ村・高善寺こうぜんじ村・岩館いわだて村、北は鳥越とりごえ村。建武元年(一三三四)四月晦日の多田貞綱書状(遠野南部文書)によれば、糠部ぬかのぶ郡の闕所地である「一戸工藤四郎左衛門入道跡」が警固用途料として南部又次郎に預けられている。工藤氏は横溝氏・岩崎氏らとともに北条氏与党であり、鎌倉時代より在地に蟠踞し勢力を扶植しつつあった有力武士団であった。同年六月一二日の北畠顕家御教書(同文書)に「当郡給主等中参御方輩注進同披露畢 一戸新給人横溝孫次郎浅野太郎跡」とあり、横溝氏が北畠顕家側に味方したこと、その恩給として一戸の新給人に任命されたことがわかる。同年一〇月六日北畠顕家は南部又次郎に対して糠部郡に出張して、郡内一戸の地を中条出羽守時長の代理の者に打渡すよう申渡すこと、使節として遅引してはならないと厳命している(「北畠顕家国宣」同文書)南北朝内乱がこの地域に深刻な状況を生起させていることがわかる。一方井氏に関する初見史料といわれる貞和五年(一三四九)一二月二九日の熊野党奥州先達系譜(熊野那智大社文書)には「ぬかのふの内九かんのへよりまいり候 たんなハミなミな当坊へ可参候 又一のへのいつかたいの中務殿も御参詣候」とみえる。戦国期に南部氏の先鋒として活躍した一方井刑部の先祖と推測される一方井中務殿が当地に居住していた。

正平二一年(一三六六)八月一五日の櫛引八幡宮神役注文案(遠野南部文書)によれば、櫛引くしひき八幡宮(現青森県八戸市)の放生会の神役として流鏑馬相撲・十烈を糠部郡の諸地域を一五番に分けて奉納するように定めており、一戸は三番に位置付けられている。


一戸村
ひとつどむら

[現在地名]椎葉村下福良しもふくら

横尾よこお村の南西、耳川の南西岸に位置する。下福良掛三九ヵ村の一つで、尾八重組に属する。日向国覚書に椎葉山之村形の一村として一戸とみえる。延享三年(一七四六)に検地竿入がなされ、畑九畝余(高八升余)が打出された(天明元年「椎葉山高反別取米一村限帳控」内藤家文書)。宝暦五年(一七五五)の下福浦村組焼畑見取御年貢米代銀上納帳(同文書)では「九年ノ尾山」に焼畑一五枚・三反余があり、その年貢米六升余・代銀四匁余。文政一一年(一八二八)には焼畑高が本高に入れられ、天保九年(一八三八)の椎葉山村々高覚(相良家文書)では高四斗余。寛延二年(一七四九)の村柄様子書上帳(同文書)では「畑地も有之木立焼畑作所等能候所ニ御座候へとも、無精故いつとなく困窮仕申候、これ先精ヲ出し相稼申候ハヽ渡世取続村も繁昌可仕かと奉存候」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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