日本大百科全書(ニッポニカ) 「七才子」の意味・わかりやすい解説
七才子
しちさいし
中国、明(みん)代の中期から後期にかけて(16世紀)、古文辞(こぶんじ)説を唱えた前七子(ぜんしちし)と後七子(ごしちし)のこと。前七子は李夢陽(りぼうよう)、何景明(かけいめい)、徐禎卿(じょていけい)、辺貢(へんこう)、康海、王九思、王廷相で、弘治(こうじ)・正徳(せいとく)(1488~1521)にかけて活躍したので、弘治七子ともいう。後七子は李攀竜(りはんりゅう)、謝榛(しゃしん)、王世貞、宗臣、梁有誉(りょうゆうよ)、徐中行、呉国倫(ごこくりん)で(『明史』巻287、「列伝」175、「文苑」3の李攀竜の条)、嘉靖(かせい)・隆慶年間(1522~72)にかけて活躍したので、嘉靖七子ともいう。前後七子の代表者4名を李何李王と併称する。清の銭大昕(せんたいきん)は「嘉靖七子攷(こう)」を撰(せん)して(『潜研堂文集』巻16)、幾変遷を経て三つの説になったと、資料をあげて説明している。第一は前記の7人で『明史』と同じ説、第二は梁有誉の死後に余曰徳(よえつとく)が加わる説、第三は『明史』の説のうち謝榛のかわりに余曰徳を加える説である。『明史』の李攀竜の伝によると、七才子の持論は「文は西京(せいけい)(前漢)より詩は天宝(盛唐)より下は、倶(とも)に観るに足る無し」であるという。『皇明七才詩集』(明七才子詩集)は馬象乾の編、万暦(ばんれき)21年(1593)の序・刊、後七子の詩集である。日本では1737年(元文2)に刊行された。七才子一派を「古文辞(こぶんじ)派」といい、詩文壇の雄となっている。日本においてこの説を摂取したのは荻生徂徠(おぎゅうそらい)で、この一派もまた「古文辞派」といい、その主張は、一時天下を風靡(ふうび)したほど有力なものであった。
[松下 忠]