中国,明の文人。字は于鱗,滄溟と号す。山東歴城の農家の出身で,歴下生ともいう。嘉靖23年(1544)の進士,刑部主事,陝西提学副使,河南按察使などに歴任,刑部にいるとき,王世貞,徐中行らと詩社を結び〈後七子〉あるいは〈嘉靖の七子〉といわれる(七子)。李夢陽(りぼうよう)の〈文は秦漢,詩は盛唐〉の説を継承して,模擬によって理想の文学をつかもうとして,極端な擬古の弊に陥った。特に古楽府の〈陌上桑(はくじようそう)〉〈東門行〉〈翁離〉は後の人から古(いにしえ)の原作のやきなおしにすぎぬときびしく批判されている。一方,今体の七言詩には才気のひらめきが認められ,〈江湖,乾坤〉などの気宇壮大なことばと〈落日,浮雲,秋色〉などの寂しいことばとを巧みに組みあわせて,よく感情をあらわしている。《唐詩選》は日本でも盛んに読まれたが,書肆(しよし)が彼の名をかたって出版したもので,直接彼の手に成るものではない。
執筆者:横田 輝俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
中国、明(みん)代の文人。字(あざな)は于鱗(うりん)、号は滄溟(そうめい)。歴城(山東省済南市)の出身。明の古文辞(こぶんじ)派の後七子(ごしちし)の1人で、その指導的地位にあった人。古文辞派は、「擬古派」とも「格調派」ともよばれ、「文は秦(しん)漢、詩は盛唐」の主張を掲げた一派で、明のなかば、当時の文壇を風靡(ふうび)した。
李攀竜は、1544年(嘉靖(かせい)23)進士及第。官は刑部主事から始まり、陝西(せんせい)提学副使に抜擢(ばってき)されたのち、病を理由に官を辞し、郷里歴城に帰った。10年後ふたたび起用され、のち河南按察使(あんさつし)に抜擢された。母の死にあって帰郷し、70年(隆慶4)57歳で卒(しゅつ)した。
彼の編著に、『滄溟(そうめい)集』30巻、『詩学事類』24巻、『白雪楼詩集』10巻、『古今詩刪(ここんしさん)』34巻がある。ほかに『唐詩選』および『詩学原始』もあるが、はたして彼の手になるものかどうか疑いが挟まれている。
[中島敏夫]
『吉川幸次郎著『中国詩人選集二集2』(1963・岩波書店)』
…その理論を〈格調説〉と称する。それは嘉靖・隆慶年間(1522‐72)の李攀竜(りはんりゆう),王世貞を中心とする〈後七子〉に継承され,とくに李攀竜の〈古色蒼然として,千篇一律〉な文学を生んだ。《周易》繫辞上の〈擬議して以て其の変化を成す〉が,模擬を主張する根底の理論となっている。…
…その作風と文学論は,それぞれに特色があり,なかでも李夢陽と何景明の模擬と創作をめぐる論争は有名である。後七子は嘉靖年間(1522‐66)に李夢陽の文学を継承して,模擬の文学を標榜した李攀竜(りはんりゆう)と,それに共鳴した王世貞,および謝榛,徐中行,宗臣,梁有誉,呉国倫をいう。前七子の李・何,後七子の李・王が有名で〈李何李王〉と併称する。…
…朱子学が誤っているとすれば,それは四書五経を誤読し,そこに書かれている聖人の教えを誤解したということであるから,徂徠は,二つの疑問を解決するためには四書五経を正確に読解せねばならず,それには四書五経の言語=古代中国語に習熟するところから始めねばならないと考えた。おりから徂徠は,中国明代の古文辞派と呼ばれる文学集団の指導者李攀竜(りはんりよう),王世貞(おうせいてい)の文集に接して,古代中国語に習熟するための方法について大きな示唆を与えられた。古文辞派は,〈文は必ず秦漢,詩は必ず盛唐〉というスローガンのもとに,秦漢の文,盛唐の詩を徹底的に模倣する擬古主義の文学運動を展開した一派である。…
…あたかも書道における往古のどの名筆を習うべきかの議論に似ている。 明の中期(16世紀前半)の李夢陽(りぼうよう),何景明らの前七子は唐詩の至上をとなえ,同じ世紀の後半李攀竜(りはんりゆう),王世貞らの後七子はその説をさらにおし進めた。《唐詩選》はこの派の教科書であった。…
…7巻。編者は李攀竜(りはんりゆう)とされていたが,早くから疑いがもたれ,編者未詳というのが定説である。明代においては,〈古文辞〉と称する文学運動がおこったが,それは,祖述すべき詩文の対象を,〈文は必ず秦漢,詩は必ず盛唐〉というように限定した,極端で過激な復古主義的・擬古典主義的な運動であった。…
※「李攀竜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新