中国の明代に七子派の文人の唱導した文章を,従来の古文と区別して古文辞と称する。後漢末から六朝にかけて盛行した,対偶の特色を生かした結果,修辞中心で内容の乏しくなった駢儷文(べんれいぶん)の弊害を打破するために,隋・唐にかけて,古文復興(古文運動)がとなえられ,唐の韓愈,柳宗元らによって確立し,北宋の欧陽修,蘇洵,蘇軾(そしよく),蘇轍,王安石,曾鞏(そうきよう)らによって継承された。それは四書五経などに見られる聖賢の理想を根底として,駢儷文の対偶形式と,空疎な内容を改革することを目的としていた。明初には唐宋の古文の流れをくむ文章が作られていたが,弘治・正徳年間(1488-1521)の李夢陽(りぼうよう),何景明を中心とする〈前七子〉の出現するまでは,宮廷の御用文学にも似た無気力な太平ムードの文学が中心となっていた。その低迷を打破するために〈文は秦漢,詩は盛唐〉を標榜して,理想とする古人の詩文に模擬して作り,その〈格調〉をつかもうとした。その理論を〈格調説〉と称する。それは嘉靖・隆慶年間(1522-72)の李攀竜(りはんりゆう),王世貞を中心とする〈後七子〉に継承され,とくに李攀竜の〈古色蒼然として,千篇一律〉な文学を生んだ。《周易》繫辞上の〈擬議して以て其の変化を成す〉が,模擬を主張する根底の理論となっている。江戸時代に荻生徂徠が李攀竜に心酔して,その古文辞を紹介し,李攀竜編と伝えられる〈唐詩選〉を流行させた。李攀竜らは文学の理想のすがたとして古文辞を唱導したが,徂徠は古文辞を修得した後に経書の理想に迫り,礼楽刑政の各方面において,それを究めて,政治に実現することを目標とした。しかし,その末流は模擬にはしり,修辞を中心とした制作だけに眼を向けて,徂徠の本来の目標から遠ざかる結果となった。古文辞を主張する根底にある理想は遠大であるが,その方法は中国においても,日本においても誤っていた。
→徂徠学
執筆者:横田 輝俊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…また政治上の諮問にあずかり綱吉の学問相手も務めた(赤穂浪士処断時の献言は有名)。40歳のころ,李攀竜,王世貞の文集を入手,発奮して古文辞研究に志す。1709年(宝永6)吉保の隠居に伴い茅場町に町宅,家塾蘐園(けんえん)を開く。…
… 明以後,流派の形成は詩法をめぐって行われた。明の中・後期には唐詩の言語表現の修得を詩法とする古文辞派が全盛をきわめた。《唐詩選》はこの派の入門書として編まれたアンソロジーである。…
※「古文辞」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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