三丁目村
さんぢようのめむら
[現在地名]古川市清水 三丁の目・向三丁の目
江合川に沿い、玉造郡東端部にある。江合川南岸に三丁目、川を挟んで北方に向三丁目がある。北と東は栗原郡小林村、南は伏見村と新田村、西は成田村に接する。大谷地遺跡は縄文早期の土器が出土。北馬場壇囲遺跡は縄文・弥生式土器に古墳時代の須恵器も出土した。古墳も多く、抑の池囲遺跡は奈良・平安時代のもので、丸瓦・平瓦に土師器・須恵器も発見された。この遺跡は古道とみられる直線道路筋に位置し、駅家に関する遺跡とも考えられる。向三丁の目の日光山を基点に東方の長岡・小野に至る丘陵地帯に多くの古墳が散在し、とくに日光山一帯には一八基の後期古墳や方墳が群集している。日光山古墳群の小寺囲支群五号墳から金銅製耳環・須恵器・土師器が発見され、七世期後半代の墳墓とみなされる。向三丁の目の丘陵の東側斜面に大吉山瓦窯跡群がある。向三丁の目の抑の関近辺から奈良時代の土器が出土したが、関としての機能がいつ頃から活用されたかはつまびらかでない。
三丁目村
さんちようめむら
[現在地名]郡山市西田町三町目・西田町黒田
鬼生田村の南、阿武隈川中流右岸の丘陵に立地。中・近世を通じて三町目とも記す。延元四年(一三三九)と推定される五月四日の北畠親房袖判沙弥宗心書状(相良文書)に「田村庄司一族、穴沢左衛門五郎成季」がみえ、穴沢氏は地内字穴沢の館に居住したと伝える。観応二年(一三五一)一一月二五日の吉良貞家奉書(白河証古文書)に「田村庄三与田・穴沢・八田河等郷事」とみえ、勲功の賞として結城顕朝に宛行っている。応永一一年(一四〇四)頃のものと推定される田村氏一族を中心とした国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)に「穴沢 宮内少輔秀朝」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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