日本歴史地名大系 「三城目村」の解説 三城目村さんじようめむら 福島県:西白河郡矢吹町三城目村[現在地名]矢吹町東川原(ひがしかわはら)・中丸(なかまる)・天開(てんかい)・白山(はくさん)・三城目・中沖(なかおき)・奉行塚(ぶぎようづか)・神田東(かんたひがし)・本城館(ほんじようだて)・陣(じん)ヶ岡(おか)・谷中(やなか)・沢尻(さわじり)・牡丹平(ぼたんだいら)・堤(つつみ)・神田西(かんたにし)・前久保(まえくぼ)阿武隈川西岸に位置し、南西は須乗(すのり)村、南は石川郡神田(かんた)村、北は岩瀬郡成田(なりた)村(現鏡石町)。三丁目とも記される。天文二一年(一五五二)六月一日の石川晴光判物(楓軒文書纂石川文書)に「岩瀬より三丁目被返候由」とあり、二階堂氏領であった当地が再び石川氏領となった。元亀二年(一五七一)二月一一日の佐竹義重感状(秋田藩家蔵若林文書)に「今度於于三城目動無比類候者也」とあり、白川・蘆名・田村氏らと佐竹氏との合戦の際当地で戦功のあった若林与衛門に感状を与えている。天正二年(一五七四)九月一三日の白河義親書状案(白河古事考)に「赤館義重被取置候はゞ、いのく目御寺領、館へ渥く令異見可返進候、三丁目御地領令相違候間、自余之不可有引懸候」とみえる。 三城目村さんじようめむら 福島県:郡山市旧西田村地区三城目村[現在地名]郡山市西田町(にしたまち)三町目(さんちようめ)鬼生田(おにゆうだ)村の南、阿武隈川中流右岸の丘陵に立地。阿武隈川に小和(こわ)滝と称する中小の瀑布があり、ここより上流の河川交通は発達しなかったという。もと会津藩領三丁目村のうちであったが、正保二年(一六四五)秋田氏の三春藩が成立する際、三丁目村全部が三春藩に編入されると藩高が増えすぎるため会津藩領分だけが分村し、高六三〇石余となった(元禄一四年「村明細帳」福島県史)。延宝六年(一六七八)幕府領となり、元禄一三年(一七〇〇)守山藩領となった際に村名を三城目とした。 三城目村さんじようのめむら 福島県:喜多方市三城目村[現在地名]喜多方市関柴町豊芦(せきしばまちとよあし)中里(なかざと)村の南にあり、東は熊倉(くまぐら)村、南は布流(ふるう)村。熊倉組に属した。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では三町目とみえ、高一五五石余。貞享二年(一六八五)の「熊倉組地下諸事作法改帳」によると、当村は雄国(おぐに)山麓の小沼(おぬま)村・高柳(たかやなぎ)村の山へ入会っていたので、小沼村へは銀二匁七分五厘、高柳村へは銀一匁一分四厘を年々「一村之償ニ而」支払うことになっていた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by