日本歴史地名大系 「三分一村」の解説 三分一村さんぶいちむら 福井県:小浜市三分一村[現在地名]小浜市三分一松永(まつなが)川の右岸に立地し、四分一(しぶいち)村の東南にあり、北は伊曾畑(いそはた)山。鎌倉時代は松永保に属した。貞享五年(一六八八)頃の明通寺由緒略記并重書目録(明通寺文書)に「康安二年 明通寺領寺野村(寺野村ハ今ノ三分一也)如古可致寺領之由也」とあり、もと寺野(てらの)村とよばれたことがわかる。元徳三年(一三三一)三月三日付惟宗能泰田地寄進状(同文書)によれば、松永保地頭惟宗氏が寺野村小字桂谷(かつらだに)六段を明通(みようつう)寺に寄進し、また建武二年(一三三五)三月二四日付明通寺院主頼禅置文写(京都大学国史研究室蔵)に明通寺領として「大寺野中河原」(現小字中広河原か)が記される。 三分一村さんぶいちむら 新潟県:両津市三分一村[現在地名]両津市真木(まき)東は椎泊(しいどまり)村、西は河崎(かわさき)村、北は両津湾に面する。南東の後背地は深く、野浦(のうら)村と入会う。集落は河崎村境の真更(まさら)川と東側の平沢(ひらさわ)川の間の標高二五メートルほどの段丘上に野中組・上中組・下中組・町組の四組がある。中世地頭時代に牧(まき)村からは二人の地頭に年貢を納めていたため、後に三分一村と牧村に分けられたと伝える。康暦二年(一三八〇)六月二日の室町将軍家(足利義満)下文写(椎泊本間文書)によると「久知郷三分二」などの地頭職が本間直泰に安堵され、残り三分の一は永徳元年(一三八一)一一月二一日の知行安堵状(歴代古案)では「久知郷参分一」とあり、潟上地頭本間勘解由左衛門に安堵されている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by