河崎村(読み)かわさきむら

日本歴史地名大系 「河崎村」の解説

河崎村
かわさきむら

[現在地名]川崎町川崎

現川崎町の中央部北寄りに位置し、中元寺ちゆうがんじ川が北流する。東は安永やすなが村・福田ふくだ(現大任町)など、南は真崎まさき村、南西は木城きしろ村、猪膝いのひざ(現田川市)、北は田原たばら村に接する。河崎は中世からの地名で、建武三年(一三三六)三月八日の足利尊氏のものとみられる寄進状(住吉神社文書/南北朝遺文(九州編)一)によると、筑前一宮(現福岡市博多区の住吉神社)に「豊前国河崎庄」(地頭職か)が寄進されたとあるが、この寄進状には検討の余地がある。延文五年(一三六〇)二月、二階堂行門は少弐頼尚が「筑前国嘉摩郡松原城」に発向する際、「田河郡河崎御陣」へ馳せ参じ、宿直・警固を行っている(同年四月五日「二階堂行円軍忠状」二階堂文書/南北朝遺文(九州編)四)


河崎村
かわさきむら

[現在地名]米子市河崎

下三柳しもみつやなぎ村の西にあり、南は粟島あわしま村。外浜境そとはまさかい往来が南東から北西に走る。砂丘と砂丘の間の谷からなる地域で、伝承と記録によれば開発は近世前半とされる。北部の四軒屋しけんやには、会見あいみ小篠津こしのづ村より元禄一〇年(一六九七)宇喜多氏浪人平左衛門(矢倉氏)が移住。同年の田畝買受証(矢倉家文書)によれば田三反余(高三石余)・畑一反余(高八斗余)。当初七右衛門・彦右衛門・次良兵衛の三人とともに入植したことから、この地を四軒屋と称したという。のちに平左衛門と次良兵衛の子孫が南の御建谷おたてだに伯母山おばやまを開いたとされる(河崎村由来記)。西方夜見よみ村に近い芝谷しばだには、会見郡竹内たけのうち(現境港市)の治左衛門ら二名が宝暦年間(一七五一―六四)四軒屋新田から夜見境、南は粟島村境までを買収して開墾したと伝える(「芝谷由来記」足芝家文書)


河崎村
かわさきむら

[現在地名]両津市河崎

東は真更まさら川で三分一さんぶいち村、西はなか川で下久知しもくぢ村、北は両津湾に面する。後方は深い奥山で野浦のうら村と接する。集落は海岸沿いの平地に街村形態をなし、台地上の岩野いわの中山なかやま千原ちはらにも散在し、千原組・弁才組・大東組・中町組・中東組・小路組・中山組・西上組・西下組・片原組・岩野組・旭組の一二組に分れる。応永一二年(一四〇五)八月一九日の久知本間氏給分帳写(椎泊本間文書)に「かわさき」「川崎」とみえる。寛永一四年(一六三七)閏三月二五日の両尾村御林立木伐採願(中浜昭二郎氏蔵)によれば、川除けのために廻り七寸の杭二四間分七二本を得るため、両尾もろお村の御林の伐採を奉行に願出ている。


河崎村
かわさきむら

[現在地名]三国町川崎かわさき

三国湊の南方、九頭竜くずりゆう川の東岸に位置し、枝村として高畠たかばたけ村があった(越前地理指南)。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図や、正保の越前国絵図には三国湊から当村への道が記され、舟渡で対岸の山岸やまぎし村に至れば、そこから福井城下への道が通じていた。寛永元年(一六二四)福井藩領から丸岡藩領となる。

丸岡藩領全域にわたって慶長三年の検地帳の末尾部分を記録した越前丸岡領水帳写(吉沢家文書)によれば、総石高六三九・三九六石、田方二三町二反余・畑方三八町八反余で荒地が多く、永荒は田畑合わせて二四町三反余(約四割)であった(正保郷帳は「水損日損所」と記す)。「国乗遺聞」には「吉田(石丸村)・川崎ノ二村、黒竜(九頭竜)川ニ枕テ水上ノ非常ヲ知ラシム、且漁ヲナシテ銀租ヲ出シ、萱野ヲ広メテ国用ニ備フ」とあり、元禄八年(一六九五)頃、小物成として萱野運上(米二・三一五石と銀二貫九五匁余)を納め、鮭・鱒などの川漁を行い、川欠地の引高が三四俵余あったことなどが記される。


河崎村
かわさきむら

[現在地名]玉名市河崎

南境を菊池川が蛇行して西流し、西を繁根木はねぎ川が流れる。東は迫間はざま村・下迫間しもはざま村、北は下社家しもしやけ村、西は秋丸あきまる村に接し、南は川を隔て向津留むこうづる村に対する。応永一〇年(一四〇三)五月一三日の大野朝隆寄進状(寿福寺文書)に累代相伝の私領「玉名西郷大野別符河崎名内向津留不動堂免畠等」がみえ、繁根木寿福はねぎじゆふく寺の静空坊鎮慶に寄進されており、あるいは同名は対岸の向津留へも広がっていたものか。同二一年一二月一三日の菊池兼朝寄進状(正観寺文書)では「河崎村十郎丸名」三町が東松軒に寄進されている。永正三年(一五〇六)三月二六日の隈部親家寄進状(広福寺文書)によれば「河崎之内道秀名」の田一町七反・畠七反などが石貫の広福いしぬきのこうふく寺侍者中へ寄せられている。


河崎村
かわさきむら

[現在地名]津山市川崎かわさき

西端を西から南へと吉井川が大きく迂回し、また東から南面を加茂かも川が流れ吉井川と合流する。東南条とうなんじよう郡に属する。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。正保郷帳では田方五二一石余・畑方一三一石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では八七九石余、うち改出高二一四石余・開高一二石余。文政元年(一八一八)の津山領郷村帳では本村七四一石余・町作地一三八石余。


河崎村
かわさきむら

[現在地名]岩美町河崎

大田おおた村の東に位置する。蒲生がもう川の右岸に本村集落があり、対岸東寄りの尾根の麓に支村新河崎村が、その南方東側の山裾に支村田中たなか村がある(因幡志)。正保期(一六四四―四八)作成と推定される因幡国絵図(県立博物館蔵)などに「川崎村」とみえるが、元禄郷帳作成時に河崎村に改めた(元禄一四年「変地其外相改目録」県立博物館蔵)。拝領高は三五六石余、本免は四ツ五分。藪役銀九匁を課されており(藩史)、西館家家臣正木氏のほか多田氏・佐藤氏・宅間氏・有沢氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数二三。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高三八八石余、竈数二七(うち医師一)。享保六年(一七二一)と元文三年(一七三八)山野荒廃のため五年間下刈停止を命ぜられており(在方御定・在方諸事控)、寛保元年(一七四一)には御鷹場に指定された(在方諸事控)


河崎村
かわざきむら

[現在地名]中島町河崎

日用ひよう川下流北岸の沖積地を開拓してできた村で、内浦街道で北東の浜田はまだ村に通じる。川崎村とも記した。伝承では荒石彦あらいしひこ神社の社人丹後・田中・刑部などが中心となって開発を進めたという。正保郷帳に長領として村名がみえ、豊田とよた村と一括して高付される。寛文一一年(一六七一)加賀藩直轄領となり、同年の鹿島半郡高免付帳(長文書)によれば高四六三石、免五ツ五歩四厘。延宝七年(一六七九)の村御印(河崎区有文書)では高五七三石、免四ツ七歩、小物成は山役五四匁・苦竹役四匁・鳥役四匁・猟船櫂役二〇目。


河崎村
かわさきむら

[現在地名]長浜市川崎町かわさきちよう

口分田くもで村の南に位置し、西は八幡中山やわたなかやま村、南は小堀こぼり村。寛永石高帳によれば高三〇八石余、幕府領一〇七石余・旗本渡辺領二〇一石余。元禄郷帳では幕府領・甲斐甲府藩領・旗本滝川領の三給。天明村高帳では大和郡山藩領と旗本滝川領(八三石余)


河崎村
こうざきむら

[現在地名]南光町河崎

宍粟郡に属し、上三河かみみかわ村の北東、千種ちくさ川上流域に位置。狭小な河谷平地左岸に集落がある。ほとんどが山地で最高点は標高四八〇メートルに達する。江戸期の領主の変遷は慶安二年(一六四九)までは林崎はやしさき村に、以後は漆野うるしの村に同じ。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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