牧村
まきむら
[現在地名]福知山市字牧
由良川の支流牧川の下流にあり、但馬街道が南方から来て西折する付近に位置する。ここから東北へ宮津街道へ連結する道がある。東北隣は上天津村、南は漆ヶ端村、西は立原村、北は観音山で大呂村に接する。北に山を負い、洪積層の段丘の前面に牧川の沖積地が広がり、古くから開けた地である。
古代には川口郷(和名抄)、中世には河口庄の地。
村内に石鏃が散布し、三〇基に近い古墳(牧古墳群)がある。おおむね七世紀のものである。小字中筋の吉備神社裏のものは横穴式で双墓。子持土器二個を含む須恵器ほかが出土した。小字弁財の厳島神社の社地にある弁天塚からは、四神四獣八鈴鏡ほかが出土。小字樋ノ口の道勘山古墳からは瑪瑙の勾玉・金銀環・青色のガラス玉・須恵器のほか、藤原時代の印仏式瓦経も出土した。
牧村
まきむら
面積:六一・三三平方キロ
東頸城郡西南端に位置し、東は安塚町、西は上越市と中頸城郡清里村、南は長野県飯山市、北は浦川原村と中頸城郡三和村と接する。東頸城丘陵の一部を占め、最高峰一〇六九・三メートルの関田山脈が長野県境である。中央を飯田川が北西に流れ、湯ノ川・棚広川・猿俣川・折居川・樫谷川の各支流を集める。北東部には平方川と高谷川が流れる。道路は国道四〇五号・主要地方道上越―安塚―松之山線を中心に一般県道四路線がある。近年、上牧から飯山市照岡に通じる林道が開かれたが、古くから「ひるこ街道」と称された春日山(現上越市)と信州とをつなぐ街道であった。
牧村
まきむら
[現在地名]豊能町牧
丹波国桑田郡に属し、野間口村の北に位置する山村。余野川(牧川とも)が南西流し、それに沿って余野道(摂丹街道)が通る。桑田郡の記録「桑下漫録」(天保一二年、永光家蔵)に「別院庄廿三ケ村ニ而壱番之大郷也」とあり、別院庄に含まれた。別院庄は京都仁和寺領で、現在の京都府亀岡市東別院町・西別院町から南は現豊能町牧・寺田、東は高槻市(旧丹波国桑田郡地域)にかけての地域であったといわれるが、仁和寺領であったことも含め詳しいことは不明。宝治二年(一二四八)勝尾寺(現箕面市)で般若会が興行されたが、その時の舞呪の一人として「長寸ヨノノ牧、十八」がみえ(「勝尾寺毎年出来大小事等目録」勝尾寺文書)、応永一三年(一四〇六)一二月六日の本物返田地売券(同文書)に牧兵衛次郎大夫の名がみえる。
牧村
まきむら
[現在地名]高山村牧
東は池ノ塔・万座山・黒湯山・御飯岳・破風岳の稜線で群馬県吾妻郡と境し、北は松川を境に奥山田・中山田、南は破風岳・奈良山の線で現須坂市豊丘地区と境し、西は奈良山北面の沢、樋沢川で現高井野と境する。県境から老ノ倉・乙見の支脈が北西に延び、この南側を柞沢川が流れて松川に入る。この南は大平山と樋沢川の扇状地福井原である。耕宅地は松川・柞沢川合流点の松川段丘上で稲荷・藤沢・北窪が主要集落。標高七〇〇メートルである。
牧村
まきむら
[現在地名]大津市上田上牧町
中野村・平野村の東方にある広域の村。集落の南を大戸川が西流し、田上道が通る。「日本書紀」天智天皇七年(六六八)七月条に「近江国、武を講ふ、又多に牧を置きて馬を放つ」とみえる牧の一つは当地に置いたとする説がある。また藤原道長が石山参詣の際用いた田上厩舎は牧も付属していたとされ、当地に設営されていた可能性がある(→田上山)。中世は田上牧庄の内。天正一一年(一五八三)八月の浅野長吉知行目録(浅野家文書)に「まき村」五〇七石余とある。江戸期を通じて膳所藩領。寛永石高帳に村名がみえ、高四五五石余、ほか一一石余。慶安高辻帳では田二五三石余・畑一九石余、永荒地一八一石余。
牧村
まきむら
[現在地名]大分市牧・牧一―三丁目・牧上町・牧緑町・萩原緑町・萩原一丁目・同三丁目・高城西町・城東町・明野西二丁目
裏川右岸にあり、伊予街道と肥後街道の分岐点に当たる。前者は府内から来た場合花津留村から裏川の渡を通って当村・萩原村と続き、後者は下郡村から北上して当村を経て萩原村に出る。豊後国弘安図田帳に「牧村二十町」とみえる。領家三浦介殿、地頭御家人牧三郎惟行法名念昭とあるが、豊後国弘安田代注進状では領家を城興寺(現京都市南区)、地頭を御家人牧三郎惟行法師法名念照とする。
牧村
まきむら
[現在地名]安八町牧
現町域の南西端に位置し、北西の馬瀬村(現大垣市)とともに揖斐川の中洲に立地して牧輪中を形成していた(宝永元年「濃州川々取払普請所絵図」林家蔵)。北東の対岸は中須村、南東の対岸は中村、西の対岸は深池村(現大垣市)。慶長年間(一五九六―一六一五)に四回の洪水があって揖斐川に新河道が生じ、当村と馬瀬村は周囲を川に囲まれた。そのため自然堤を利用し堤を築き水害に備えたが、慶安三年(一六五〇)の大洪水で当村では四八ヵ所破堤したという記録が残っており(牧村史)、江戸前期には輪中の形態を備えていたらしい。古くは馬置とも記された。牧畜にかかわる地名で、治承年間(一一七七―八一)源義経に良馬を献上した縁で、牧村の名を与えられたと伝える(同書)。
牧村
まきむら
[現在地名]大和町牧
徳永村の東、栗巣川中流右岸の段丘山地にある。槙村・真木村とも書く。「新撰美濃志」に「今猶馬場の形を存し」とあり、「郡上郡史」は村名を牧場に起源するとしている。中世の東氏の居城篠脇城があった。内会津に東氏の菩提寺木蛇寺があったと伝え、現在東家代々の法名を刻んだ二基の墓標と古い宝篋印塔がある。また元兼に東氏一族創建の東林寺跡がある。木蛇寺地内に慈永大姉墓がある。勧乗寺跡からは古瀬戸灰釉瓶子が出土している。天文九年(一五四〇)朝倉氏の篠脇城侵攻の際に討死した人々を葬ったと伝える千人塚が三ヵ所ある。慶長郷帳に「西けら・牧共」とみえ、高一千四四石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では「すミ村・牧共」として高一千二五四石余。
牧村
まきむら
[現在地名]近江八幡市牧町・元水茎町
南津田村の南西にある。北東の津田の入江と南西の水茎の入江の間に半島状に突き出た地で、半島突端に陸繋島の岡山(水茎岡)がある。地名は小神(岡見)牧に由来するとされる。中世は牧庄として推移。水茎岡は「万葉集」に「天霧らひ日方吹くらし水茎の岡の水門に波立ちわたる」などと詠まれ、平安以降歌枕として知られた。「八雲御抄」は近江とするが、水茎(後世、みずぐきとも発音された)を岡にかかる枕詞として水茎岡を筑前岡水門(現福岡県遠賀郡芦屋町一帯に比定される)にあてる説もある。
寛永石高帳では高六三一石余、下総古河藩領。
牧村
まきむら
[現在地名]神石町牧
田頭村の北に位置し、西は甲奴郡小塚村(現上下町)。西城路が南北に走り、諸所への東西の道が分岐する。村域南端の郷に郷古墳がある。地名は古代の牧があったことによると伝え、村域内に牧原という集落名もある。そのほか土居谷・山形・三歩一・俵原の集落がある。文明四年(一四七二)二月三〇日付の足利義政御内書写(小早川家文書)に「去年十二月九日、於備後国馬木陣、敵寄来及合戦」と馬木の地名がみえるが、当地の熊野神社の石鉢に馬木と刻したものがあり、当地をさすものと考えられる。
牧村
まきむら
[現在地名]村松町牧
高松村の北、能代川の支流牧川の上流域にある。東は上野村・田中村、北東は青橋村。栃林・堤屋敷・中村・御堂・原・興野・平の集落よりなる。近世には上牧分・下牧分の区分があったが、表面上は牧村を称していた。元和五年(一六一九)村上藩主堀直寄が家臣富岡八郎左衛門に宛てた知行宛行目録(富岡行雄氏蔵)に「菅名組槙村之内」高六七石六斗余を記す。同九年の堀直寄の知行宛行目録(堀家文書)では堀伝左衛門・同伝五・同三吉に「菅名組牧村」高一千七五石八斗余が宛行われている。正保国絵図に高八〇五石余、村松藩領。同藩により寛文九年(一六六九)に畑地、同一一年に田地の検地が行われたが、弘化二年(一八四五)から安政三年(一八五六)までの一一年間に前後六回の検地がなされ(中蒲原郡誌)、新開地が増大している。
牧村
まぎむら
[現在地名]葛生町牧
秋山川中流左岸にあり、南は小屋村、東は上仙波村・下仙波村、西は山を挟み安蘇郡御神楽村(現田沼町)、北は同郡柿平村。都賀郡に属し、慶安郷帳では田一六二石余・畑八〇一石余、幕府領。同帳輪王寺本では出流山村(高九六四石余)が当村にあたると思われる。元禄郷帳では幕府領。改革組合村・旧高旧領取調帳では対馬厳原藩領。元和三年(一六一七)当時の本百姓三六・門屋百姓一三(「日光御用割付」野城勝文書)。元禄四年(一六九一)の村明細帳(島野公良文書)によれば高一千四一石余、田五町八反余・畑四八町七反余。家数一一四、男二六三・女二〇五、馬一一。
牧村
まきむら
[現在地名]穂高町大字西穂高 牧
烏川の左岸段丘上に立地。烏川扇状地の扇頭にあたる離山付近からは縄文中期の遺跡、遺物及び弥生式土器が出土していることから、扇端の保高村同様古く開発されていたことが知られる。天正一三年(一五八五)三月一〇日付の栗尾山観音寺あての細萱河内守長知書状に「牧之地ニ候あミた地」とみえている。文禄年代(一五九二―九六)に成立した筑摩安曇両郡郷村御朱印御高附には、「三百拾三石六斗弐升七合 牧草深村此内十五石ハ満願寺領」とあって、川久保沢を隔てて北に隣接する草深を合併している。
牧村
まきむら
[現在地名]信楽町牧
黄瀬村の南に位置し、東は伊賀国境。村内を大戸川が流れ、主集落はその右岸に形成される。村名は甲賀牧が当地に設定されたという伝承によるとされる。寛永石高帳では幕府代官多羅尾領。元禄郷帳では幕府領と旗本大久保・同伊東領の三給。天明村高帳では山城淀藩領と旗本伊東領。天保八年郷帳では幕府領と丹後宮津藩領。寛永石高帳では高五七八石余、慶安二年書上による内訳は田三〇一石余・畑屋敷七三石余・永荒川欠け二〇三石余。村内には信楽焼の古窯跡が残り、江戸時代の後期から神仏器など小物を主とした製陶が行われ近代に至った。
牧村
まきむら
[現在地名]三朝町牧
湯谷村の南、竹田川の上流に位置し、倉吉往来が通る。拝領高一二七石余、本免四ツ五分。倉吉荒尾氏の給地(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一五〇石余、竈数二五。恩鳥は当村の出村として開発されたという。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一九二石余、竈数三二。曹洞宗の洞雲山龍泉寺は寛文一〇年(一六七〇)曹源寺五世如鏡の開山という。その後無住となり荒廃し、明和二年(一七六五)久原村の大庄屋安藤吉右衛門が曹源寺一六世寂堂を請じ再興。
牧村
まぎむら
[現在地名]西会津町野沢
堀越村の南、安座川の右岸に位置し、同川支流の中野川が当地で合流する。河沼郡野沢組に属した。古くは牧場であったことが地名の由来という(新編会津風土記)。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川郡のうちに牧とみえ、高一〇九石余。寛文五年(一六六五)の野沢組土地帳(西会津町史編さん室蔵)では高一七〇石余、家数七、男三六・女二八、駒四。貞享二年(一六八五)の「野沢組風俗改帳」によると、杉原などの御用紙を漉き、年々役銀二匁八分を納めて川漁を行っている。「新編会津風土記」によると家数一六、鎮守は住吉神社。文化一五年(一八一八)の村日記では高一四七石余。
牧村
まきむら
[現在地名]久居市牧町
川方村の南東方、新家村との中間にあり、雲出川氾濫原を見はるかす台地上に位置する。「神鳳鈔」に載せる内宮領「下牧御薗」は、当地に比定する説が多い(久居市史ほか)。室町中期には木造氏が領していたらしく、当地に城を構えたが(木造軍記)、天正一二年(一五八四)の落城後、安濃津城(現津市)城主富田知信が当地を知行し、慶長一三年(一六〇八)藤堂高虎の入封後は津藩領、寛文九年(一六六九)以後は久居藩に属した。寛延(一七四八―五一)頃の戸数四五、人口一七五、馬六の小村で、社寺は八王子社(現八柱神社)、宝樹寺(天台真盛宗)で(宗国史)、同寺境内の地蔵堂に正和三年(一三一四)八月二九日在銘の石造地蔵菩薩坐像一躯(県指定文化財)が安置されている。
牧村
まきむら
[現在地名]柿崎町下牧
東は水野村、西は平沢村と接する。柿崎村と鯨波村(現柏崎市)を結ぶ谷根通の途中、小萱村から当村を経て黒岩村に出る枝道がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「柿崎分まき村 下」とみえ、本納八石五斗・縄高一二石九斗二升四合三勺、家二軒・六人とある。正保国絵図に村名が記される。天和三年郷帳に村名がみえず、元禄郷帳では高一二石と記される。
牧村
まきむら
[現在地名]大山町牧
常願寺川左岸の段丘上にあり、西は松木村、南東は才覚地村。正保郷帳の高三二石余、田方四反余・畑方一町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高四八石、免四ツ、小物成は山役六〇匁・漆役一匁・蝋役三匁・鮎川役一匁(三箇国高物成帳)。天保一一年(一八四〇)の高免帳(杉木家文書)によれば、同高で免は二ツとなっている。文政八年(一八二五)島組、天保一〇年以降も島組に属した。明治五年(一八七二)の戸数一五(新川県戸数表)。雄山神社はかつては尾山神社と記したこともあったが、松木と合同の宮であるところからいずれか一村が分村したものと考えられる。
牧村
まきむら
[現在地名]神岡町牧
高原川中流東岸、東は笈破村、南は東漆山村、高原川に跡津川が直角に交わる形で流入する。慶長一〇年(一六〇五)・同一八年の飛騨国郷帳は吉ヶ原村と同じ。元禄検地反歩帳では高六石余、田三反余・畑八反余。「飛騨国中案内」では免三割一分三厘余、家数四はみな百姓で、うち二軒は枝村滑谷にある。滑谷は「斐太後風土記」では東漆山村の枝村とされる。
牧村
まきむら
[現在地名]上志比村牧福島
九頭竜川中流の左岸に位置し、南東は山王村、西は北島村。南を勝山街道が通る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「志比上之庄」に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方四〇二石余・畠方二六〇石余。正保二年(一六四五)福井藩領から松岡藩領となり、享保六年(一七二一)再び福井藩領となった。
「越前地理指南」は牧村の枝村として北島村寄りにあった福島を記すが、この福島が元禄郷帳以降福島村として独立、村高はそれぞれ三三一・一八石ずつとなった。
牧村
まきむら
[現在地名]白川村牧
庄川に沿って福島村の北にあり、白川街道が通る。野首から対岸の長瀬村温泉へは長さ五〇間の籠渡があった。金森氏時代の高は七石余(飛騨国中案内)。元禄飛騨国検地反歩帳の高五石余、田五反余・畑八反余。元禄一〇年(一六九七)再び高山別院照蓮寺(現高山市)領となり、のち幕府領分一石余が加わった(「岐阜県史」など)。
牧村
まきむら
[現在地名]新宮町牧
時重村の北東に位置し、栗栖川上流に立地する。揖西郡に属した。慶長国絵図に村名がみえる。領主の変遷は町屋村と同じ。寛永一三年(一六三六)の龍野領村々高辻帳(八瀬家文書)では池田輝政による内検地高二七〇石余、高二二三石余。正保郷帳では田方四一石余・畑方一八二石余。元禄郷帳では高二七九石余。天保郷帳では高二九五石余。河内神社、浄土真宗本願寺派勝願寺がある。
牧村
まきむら
[現在地名]市島町上牧 牧北
南端を鴨庄川が流れ対岸は上村。「丹波志」ではもとは上村を枝村とする。領主の変遷は梶原村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高一一九石余・畠高四〇石、柴山・林あり、日損少しあり。「丹波志」では旗本川勝領で、家数五〇。明治一九年(一八八六)に上村と合併して上牧村となる。
牧村
まきむら
[現在地名]大宇陀町大字牧
津風呂川上流、栗野村南方の渓谷に所在。古代牧跡か。「吾妻鏡」文治元年(一一八五)五月二四日条に源義経の「腰越状」を載せるが、その中に「宇多郡竜門牧之以来、一日片時不住安堵思」とあり、また義経が吉野山に逃れた時当村に隠れたという(吉野郡史料)。現吉野郡川上村運川寺所蔵大般若経には「正平十四年己亥初冬廿三日於竜門牧之城内」(巻五二)、「六月卅日為牧定観房廿五年忌之間、先日廿九日出家法名覚仏官軍楠木、牧尭観房、故定観房」(巻一五四)、「正平十八年正月十六日 於牧之奥殿庵写之了 雲祥筆 一交了」(巻四一四)などの奥書がある。
牧村
くずまきむら
[現在地名]白川町河東 葛牧
飛騨川左岸、河岸段丘上の山麓に位置する。北西は野原村、東は広野村・宇津尾村。慶長郷帳に「くす牧村」とあり、高八四石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では堀直寄(越後長岡藩)領。同五年より尾張藩領となり幕末まで続く。正保郷帳では田方三五石余・畑方四七石余、山年貢六斗とある。「濃州徇行記」によると高五八石余、家数四七・人数二一九、馬二三。枝村鷲原があり、天保郷帳に葛牧村枝郷として鷲原村が記され、高一三石余。
牧村
あしのまきむら
[現在地名]会津若松市大戸町芦牧
阿賀川が大きく曲流する右岸にあり、東は山、北東は小塩村、南東は船子村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録の南山のうちに足野牧とあり、高七六石余。寛永二〇年(一六四三)より南山御蔵入領となり、小出組に属し、文化一五年(一八一八)の南山御蔵入領組村高帳では高一三二石余。
牧村
まきむら
[現在地名]竹田市太田
篠尾村から倉木村へ至る道に沿い、北は大仲寺村、南は長田村。正保郷帳では倉木郷に属し、田方一八石余・畑方三四石余で、柴山有と注記される。弘化物成帳では太田組のうち、村位は下、免九ツ、田一一一石余(一一町八反余)・畑七七石余(一六町二反余)・屋敷七石余(七反余)で、開田二斗余(一反余)・開畑二石余(四町八反余)がある。
牧村
まきむら
[現在地名]牧村上牧
飯田川支流の猿俣川左岸の上流部、ひるこ街道上に位置。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図ではひるこ峠の麓に「嵯峨野分まきの村 下」とあり、本納五石・縄高一四石七斗五升四合、家一軒・三人男女。正保国絵図では「真木村」とあり、無高、番所と記される。ひるこ街道の荷返り場や休み場で信州との荷物の中継地点となり、宿場町として発達した。
牧村
まきむら
[現在地名]五條市牧町
吉野川南岸に所在。村内には牧代原、牧代バ子、牧代などの小字があり、小字瓦谷からは奈良朝時代の古瓦が出土。天元三年(九八〇)とみられる太政官符案(彰考館本栄山寺文書)に「高栗栖牧地参拾町 在同郡那珂郷河南三条五灰焼里北辺布師村」とある高栗栖牧の地か。
牧村
まきむら
[現在地名]武生市牧町
丹生山地を流れる天王川左岸、小杉村の南にある。中世は山干飯保の地。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に「真木村」と記され、高一八六・〇四七石、先高一八四石余・出分二石余。正保郷帳には牧村とあり、田方一七〇石余・畠方一五石余。
牧村
まきむら
[現在地名]金沢市牧町
伝灯寺村の南に位置。正保郷帳によれば高二〇八石余、田方九町九反余・畑方三町九反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高二三一石、免五ツ六歩、小物成は山役二二四匁・蝋役二匁・綿役二匁(三箇国高物成帳)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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牧村
正式社名「牧村株式会社」。英文社名「MAKIMURA & CO., LTD.」。卸売業。明治37年(1904)創業。昭和22年(1947)「株式会社牧村商店」設立。同25年(1950)現在の社名に変更。本社は大阪市中央区本町。繊維専門商社。繊維服飾素材・繊維製品の販売・輸出入を行う。紳士服・婦人服・ユニフォームの素材提案からデザイン・製品化までを手がける。
出典 講談社日本の企業がわかる事典2014-2015について 情報
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