三好義賢(読み)みよし・よしかた

朝日日本歴史人物事典 「三好義賢」の解説

三好義賢

没年永禄5.3.5(1562.4.8)
生年:大永6(1526)
戦国時代の武将。元長の子,長慶の弟。幼名千満丸,別名之康,之虎,元康。入道して実休。豊前守。阿波守護細川持隆の被官。兄長慶が摂津越水城主の間,阿波にあって兵を蓄え,天文15(1546)年秋,細川氏綱と戦う兄長慶を助けるため出兵して堺に上陸,翌年7月の舎利寺の戦で氏綱・遊佐長教連合軍を大破した。これにより長慶は長教と政略婚を結び,後年畿内に覇を唱える基をなした。一方義賢は同22年6月,弟十河一存の援助を得て主君持隆を阿波勝瑞城に暗殺,遺子真之を傀儡として国主に立て,自らは阿波に実権を握った。長慶の専制時代である同23年10月には長慶,弟安宅冬康と淡路洲本に会して領国経営の情報交換を行い,その翌月冬康,篠原長房らと共に明石に上陸,大山寺まで進駐して別所城の三木次郎を下した。永禄1(1558)年8月には再び長慶の要請で兵庫に上陸,この武力を背景に長慶は将軍足利義輝と和睦した。翌々年長慶が河内併合を決すると,義賢はその先鋒として四国の兵を率いて尼崎に上陸,河内十七箇所を経て藤井寺に進駐,高屋城の守護代安見直政を攻めて同10月末陥落させ,河内国主,高屋城主となった。しかし同4年7月,河内の旧国主畠山高政が根来寺と連合して紀伊から北上,翌年3月,和泉久米田において根来鉄砲隊の往来右京の手にかかり討死した。義賢は三好領国の四国と畿内を結ぶ紐帯であり,その死は同政権の衰退を早めた。<参考文献>長江正一『三好長慶

(今谷明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三好義賢」の解説

三好義賢 みよし-よしかた

1526-1562 戦国時代の武将。
大永(たいえい)6年生まれ。三好元長の次男。阿波(あわ)(徳島県)の守護細川持隆の重臣。天文(てんぶん)22年(1553)持隆を暗殺,その子細川真之(さねゆき)をたてて実権をにぎる。兄長慶(ながよし)の畿内平定に協力,永禄(えいろく)3年畠山高政を攻め河内(かわち)(大阪府)高屋城にはいった。5年3月5日畠山軍の反攻で戦死。37歳。茶人としても著名。別名に之康など。号は実休。

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