三宅秀(読み)ミヤケ シュウ

新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「三宅秀」の解説

三宅 秀
ミヤケ シュウ


専攻分野
病理学,医史学,裁判医学,衛生行政

肩書
貴院議員(勅選),東京帝国大学名誉教授

生年月日
嘉永1年11月(1848年)

学位
医学博士〔明治21年〕

経歴
高島秋帆らの家塾に学び、文久3年遣欧使節に従ってフランスを巡遊。帰国後横浜でヘボンに英学を学び、さらに米軍医の内塾生となり3年間医学を修めた。明治3年大学に出仕、中助教、大助教、文部少教授、東京医学校校長心得を歴任。9年米国の医学会に出席後、東京帝国大学医学部長、東京医科大学教授兼学長となった。18年渡欧。21年日本初の医学博士号を取得。24年勅選貴院議員となり、東大初の名誉教授に推薦される。帝国学士院会員。著書に「病体剖観示要」「病理総論」「病理各論」「治療通論」などがある。

受賞
従三位勲二等

没年月日
昭和13年3月16日

資格
?国学士院会員

出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報

20世紀日本人名事典 「三宅秀」の解説

三宅 秀
ミヤケ ヒイズ

明治期の医学者 東京帝大名誉教授;貴院議員(勅選)。



生年
嘉永1年11月17日(1848年)

没年
昭和13(1938)年3月16日

出生地
江戸・本所緑町

別名
幼名=復一,号=煙波

学位〔年〕
医学博士〔明治21年〕

主な受賞名〔年〕
勲二等

経歴
高島秋帆らの家塾に学び、文久3年遣欧使節に従ってフランスを巡遊。帰国後横浜でヘボンに英学を学び、さらに米軍医の内塾生となり3年間医学を修めた。明治3年大学東校(現・東大医学部)に出仕、中助教、大助教、文部少教授、東京医学校校長心得を歴任。14年東京大学医学部長を経て、19年帝大医科大学教授兼学長に就任。21年日本初の医学博士号を取得。24年勅選貴院議員となり、東大初の名誉教授に推薦される。帝国学士院会員。著書に「病体剖観示要」「病理総論」「病理各論」「治療通論」「健康長寿法」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「三宅秀」の解説

三宅秀

没年:昭和13.3.16(1938)
生年:嘉永1.11.17(1848.12.12)
明治大正期の医学者。江戸(本所緑町)生まれ。三宅艮斎の子。幼名復一。文久3(1863)年遣仏使節に同行。慶応3(1867)年英学教師として金沢,七尾に赴任。英学,仏学に通じる。明治3(1870)年大学東校(東大)で病理学を講ずる。19年帝大医科大教授兼学長,医史学・医の倫理言及。日本最初の医学博士のひとり。日本学士院会員,錦鶏間祗候,貴族院議員。妻は佐藤尚中の娘,子息鉱一,孫仁 も東大教授。<著作>『病体剖観示要』『治療通論』『健康長寿法』<参考文献>福田雅代『桔梗―三宅秀とその周辺―』

(長門谷洋治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三宅秀」の解説

三宅秀 みやけ-ひいず

1848-1938 明治-昭和時代前期の医学者。
嘉永(かえい)元年11月17日生まれ。三宅艮斎(ごんさい)の長男。文久3年(1863)幕府の遣仏使節に随行。帰国後横浜で英語,数学,医学をまなぶ。明治3年から大学東校につとめ,東京大学医学部長をへて19年帝国大学医科大学長。医学教育と医療行政の確立につとめた。日本初の医学博士のひとり。貴族院議員。昭和13年3月16日死去。91歳。江戸出身。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

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