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山田方谷 やまだ ほうこく

美術人名辞典の解説

山田方谷

幕末・明治儒者備中生。名は球、字は琳卿、通称を安五郎、方谷は号。初め新見藩儒丸川松隠に程朱学を、のち上京して佐藤一斎陽明学を学び、佐久間象山らと親交を結ぶ。天保七年新見藩に帰り藩校有終館学頭・文締兼吟味役・郡奉行を務め、藩の財政改革にも尽力する。明治10年(1877)歿、73才。

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デジタル大辞泉の解説

やまだ‐ほうこく〔‐ハウコク〕【山田方谷】

[1805~1877]幕末・明治前期の陽明学者。備中の人。名は球。通称、安五郎。方谷は号。幕末期に松山藩の財政整理と藩政改革に成功。明治維新後は閑谷(しずたに)学校再興に尽力した。

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百科事典マイペディアの解説

山田方谷【やまだほうこく】

幕末・明治初期の陽明学者。名は球,字は琳卿(りんけい)。備中(びっちゅう)の人。新見(にいみ)藩儒丸川松陰(まるかわしょういん)に学び,のち佐藤一斎に学ぶ。帰郷後は備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)に仕え,治績をあげた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

山田方谷 やまだ-ほうこく

1805-1877 江戸後期-明治時代の儒者。
文化2年2月21日生まれ。佐藤一斎らにまなび,天保(てんぽう)8年備中(びっちゅう)(岡山県)松山藩藩校有終館学頭。藩主板倉勝静(かつきよ)のもとで財政改革をおこない,勝静が老中につくと顧問となる。維新後は岡山県閑谷(しずたに)学校の再興につくした。明治10年6月26日死去。73歳。名は球。字(あざな)は琳卿。通称は安五郎。著作に「古本大学講義」など。

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朝日日本歴史人物事典の解説

山田方谷

没年:明治10.6.26(1877)
生年:文化2.2.21(1805.3.21)
幕末維新期の儒学者。名は球,字は琳卿,通称安五郎,方谷は号。備中国阿賀郡西方村(岡山県高梁市中井町)に絞油業を営む父五郎吉(重美)と母梶の長男に生まれる。丸川松隠に就き,のち文政8(1825)年上洛して寺島白鹿に学び,10年松山藩(岡山県)藩校有終館会頭となり,士籍に列した。天保2(1831)年再上洛,春日潜庵ら陽明学者と往来,翌年江戸に出て佐藤一斎に師事する。7年帰藩後藩校学頭。嘉永2(1849)年藩主板倉勝静の抜擢により元締役兼吟味役,またのち郡奉行となり破綻した藩財政の立て直しを行う。学者としての名声高く,久坂玄瑞,秋月胤永,河井継之助らが来遊従学する。文久2(1862)年藩主が老中に就任するや,方谷を顧問とした。慶応1(1865)年藩主の老中復職後再び顧問となり幕末政局に対するが意を得ず帰藩する。維新後はもっぱら教育に努め,明治6(1873)年再興の岡山県閑谷学校に請われて出講した。その思想は陽明学であるが,単なる祖述に終わらず「経世致用の学」との自信に裏付けられていた。<著作>『山田方谷全集』<参考文献>山田準『方谷先生年譜』

(沼田哲)

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世界大百科事典 第2版の解説

やまだほうこく【山田方谷】

1805‐77(文化2‐明治10)
幕末・維新期の儒学者。名は球,字は琳卿,安五郎と称する。備中松山藩の農民出身。新見藩儒丸川松陰に学び,25歳で藩学会頭に抜擢(ばつてき)される。その後佐藤一斎に従学,帰郷し学頭となる。教学振興につとめ藩治にも功績をあげ,老中となった藩主板倉勝静(かつきよ)を補佐してよく幕末期の難局を処理した。維新後は子弟教育に任じ,備前の閑谷(しずたに)学校の再興に尽力した。著述は《山田方谷全集》に収める。【頼 祺一】

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

山田方谷
やまだほうこく

[生]文化2(1805).2.21. 備中,西方村
[没]1877.6.26. 岡山,刑部
江戸時代末期の陽明学派の儒学者。名は球,字は琳卿。方谷は号。丸川松隠に朱子学詩文を学ぶ。京都で学び,文政 12 (1829) 年松山藩より禄を受け,藩学会頭。 30歳のとき江戸に出て,佐藤一斎の門に入り,佐久間象山,塩谷宕陰らと交わりを結び,3年後帰藩して藩学学頭,藩主板倉勝静の侍講を経て,元締役,郡奉行となり,財政改革に尽した。廃藩後,請われ,閑谷学校の再興にあたった。主著『義喪私議』『献策国字稿』『方谷遺稿』。

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367日誕生日大事典の解説

山田方谷 (やまだほうこく)

生年月日:1805年2月21日
江戸時代末期;明治時代の儒学者
1877年没

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世界大百科事典内の山田方谷の言及

【松山藩】より

…その後,領主は水谷(みずのや)氏5万石,安藤氏6万5000石,石川氏6万石を経て,1744年(延享1)以降は板倉氏が,備中国上房,川上,賀陽,下道,哲多,阿賀,浅口7郡の内で5万石を襲封して明治維新に及んだ。藩治で見るべきものには,水谷氏治下での新田開発,松山(高梁)川改修,城下町形成,維新時の藩主板倉勝静(かつきよ)による儒者山田方谷(ほうこく)を登用しての財政改革,産業奨励,文教刷新などがある。勝静は松平定信の孫で,1862‐64年(文久2‐元治1),65‐68年(慶応1‐明治1)老中を務めて朝敵とされた。…

※「山田方谷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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