デジタル大辞泉
「山田方谷」の意味・読み・例文・類語
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やまだ‐ほうこく【山田方谷】
- 江戸後期の陽明学者。岡山の人。名は球。字は琳卿。通称安五郎。備中新見藩儒丸川松陰に学び、二五歳で藩学会頭となる。のち江戸に出て、佐藤一斎門で、佐久間象山、塩谷宕陰らとともに研鑽。帰藩後、藩学有終館の学頭、侍読となり、ついで元締(もとじめ)家老として財政整理と藩政改革に治績をあげた。その学は王陽明に多く得るが、程朱をも参酌する。著「方谷遺稿」「集義和書類抄」など。文化二~明治一〇年(一八〇五‐七七)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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山田方谷 (やまだほうこく)
生没年:1805-77(文化2-明治10)
幕末・維新期の儒学者。名は球,字は琳卿,安五郎と称する。備中松山藩の農民出身。新見藩儒丸川松陰に学び,25歳で藩学会頭に抜擢(ばつてき)される。その後佐藤一斎に従学,帰郷し学頭となる。教学振興につとめ藩治にも功績をあげ,老中となった藩主板倉勝静(かつきよ)を補佐してよく幕末期の難局を処理した。維新後は子弟教育に任じ,備前の閑谷(しずたに)学校の再興に尽力した。著述は《山田方谷全集》に収める。
執筆者:頼 祺一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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山田方谷【やまだほうこく】
幕末・明治初期の陽明学者。名は球,字は琳卿(りんけい)。備中(びっちゅう)の人。新見(にいみ)藩儒丸川松陰(まるかわしょういん)に学び,のち佐藤一斎に学ぶ。帰郷後は備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)に仕え,治績をあげた。維新後隠退,教育に専念し,備前(びぜん)閑谷(しずたに)学校の復興に尽力した。門下に二松学舎(にしょうがくしゃ)を開いた三島中洲(ちゅうしゅう)らがいる。著書《師門問弁録》《方谷遺稿》など。
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山田方谷
やまだほうこく
[生]文化2(1805).2.21. 備中,西方村
[没]1877.6.26. 岡山,刑部
江戸時代末期の陽明学派の儒学者。名は球,字は琳卿。方谷は号。丸川松隠に朱子学,詩文を学ぶ。京都で学び,文政 12 (1829) 年松山藩より禄を受け,藩学会頭。 30歳のとき江戸に出て,佐藤一斎の門に入り,佐久間象山,塩谷宕陰らと交わりを結び,3年後帰藩して藩学学頭,藩主板倉勝静の侍講を経て,元締役,郡奉行となり,財政改革に尽した。廃藩後,請われ,閑谷学校の再興にあたった。主著『義喪私議』『献策国字稿』『方谷遺稿』。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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山田方谷 やまだ-ほうこく
1805-1877 江戸後期-明治時代の儒者。
文化2年2月21日生まれ。佐藤一斎らにまなび,天保(てんぽう)8年備中(びっちゅう)(岡山県)松山藩藩校有終館学頭。藩主板倉勝静(かつきよ)のもとで財政改革をおこない,勝静が老中につくと顧問となる。維新後は岡山県閑谷(しずたに)学校の再興につくした。明治10年6月26日死去。73歳。名は球。字(あざな)は琳卿。通称は安五郎。著作に「古本大学講義」など。
出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
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山田方谷 (やまだほうこく)
生年月日:1805年2月21日
江戸時代末期;明治時代の儒学者
1877年没
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の山田方谷の言及
【松山藩】より
…その後,領主は水谷(みずのや)氏5万石,安藤氏6万5000石,石川氏6万石を経て,1744年(延享1)以降は板倉氏が,備中国上房,川上,賀陽,下道,哲多,阿賀,浅口7郡の内で5万石を襲封して明治維新に及んだ。藩治で見るべきものには,水谷氏治下での新田開発,松山(高梁)川改修,城下町形成,維新時の藩主板倉勝静(かつきよ)による儒者[山田方谷](ほうこく)を登用しての財政改革,産業奨励,文教刷新などがある。勝静は松平定信の孫で,1862‐64年(文久2‐元治1),65‐68年(慶応1‐明治1)老中を務めて朝敵とされた。…
※「山田方谷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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