デジタル大辞泉
「山田方谷」の意味・読み・例文・類語
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やまだ‐ほうこく【山田方谷】
- 江戸後期の陽明学者。岡山の人。名は球。字は琳卿。通称安五郎。備中新見藩儒丸川松陰に学び、二五歳で藩学会頭となる。のち江戸に出て、佐藤一斎門で、佐久間象山、塩谷宕陰らとともに研鑽。帰藩後、藩学有終館の学頭、侍読となり、ついで元締(もとじめ)家老として財政整理と藩政改革に治績をあげた。その学は王陽明に多く得るが、程朱をも参酌する。著「方谷遺稿」「集義和書類抄」など。文化二~明治一〇年(一八〇五‐七七)
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山田方谷
没年:明治10.6.26(1877)
生年:文化2.2.21(1805.3.21)
幕末維新期の儒学者。名は球,字は琳卿,通称安五郎,方谷は号。備中国阿賀郡西方村(岡山県高梁市中井町)に絞油業を営む父五郎吉(重美)と母梶の長男に生まれる。丸川松隠に就き,のち文政8(1825)年上洛して寺島白鹿に学び,10年松山藩(岡山県)藩校有終館会頭となり,士籍に列した。天保2(1831)年再上洛,春日潜庵ら陽明学者と往来,翌年江戸に出て佐藤一斎に師事する。7年帰藩後藩校学頭。嘉永2(1849)年藩主板倉勝静の抜擢により元締役兼吟味役,またのち郡奉行となり破綻した藩財政の立て直しを行う。学者としての名声高く,久坂玄瑞,秋月胤永,河井継之助らが来遊従学する。文久2(1862)年藩主が老中に就任するや,方谷を顧問とした。慶応1(1865)年藩主の老中復職後再び顧問となり幕末政局に対するが意を得ず帰藩する。維新後はもっぱら教育に努め,明治6(1873)年再興の岡山県閑谷学校に請われて出講した。その思想は陽明学であるが,単なる祖述に終わらず「経世致用の学」との自信に裏付けられていた。<著作>『山田方谷全集』<参考文献>山田準『方谷先生年譜』
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山田方谷 (やまだほうこく)
生没年:1805-77(文化2-明治10)
幕末・維新期の儒学者。名は球,字は琳卿,安五郎と称する。備中松山藩の農民出身。新見藩儒丸川松陰に学び,25歳で藩学会頭に抜擢(ばつてき)される。その後佐藤一斎に従学,帰郷し学頭となる。教学振興につとめ藩治にも功績をあげ,老中となった藩主板倉勝静(かつきよ)を補佐してよく幕末期の難局を処理した。維新後は子弟教育に任じ,備前の閑谷(しずたに)学校の再興に尽力した。著述は《山田方谷全集》に収める。
執筆者:頼 祺一
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山田方谷【やまだほうこく】
幕末・明治初期の陽明学者。名は球,字は琳卿(りんけい)。備中(びっちゅう)の人。新見(にいみ)藩儒丸川松陰(まるかわしょういん)に学び,のち佐藤一斎に学ぶ。帰郷後は備中松山藩主板倉勝静(かつきよ)に仕え,治績をあげた。維新後隠退,教育に専念し,備前(びぜん)閑谷(しずたに)学校の復興に尽力した。門下に二松学舎(にしょうがくしゃ)を開いた三島中洲(ちゅうしゅう)らがいる。著書《師門問弁録》《方谷遺稿》など。
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山田方谷
やまだほうこく
[生]文化2(1805).2.21. 備中,西方村
[没]1877.6.26. 岡山,刑部
江戸時代末期の陽明学派の儒学者。名は球,字は琳卿。方谷は号。丸川松隠に朱子学,詩文を学ぶ。京都で学び,文政 12 (1829) 年松山藩より禄を受け,藩学会頭。 30歳のとき江戸に出て,佐藤一斎の門に入り,佐久間象山,塩谷宕陰らと交わりを結び,3年後帰藩して藩学学頭,藩主板倉勝静の侍講を経て,元締役,郡奉行となり,財政改革に尽した。廃藩後,請われ,閑谷学校の再興にあたった。主著『義喪私議』『献策国字稿』『方谷遺稿』。
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山田方谷 やまだ-ほうこく
1805-1877 江戸後期-明治時代の儒者。
文化2年2月21日生まれ。佐藤一斎らにまなび,天保(てんぽう)8年備中(びっちゅう)(岡山県)松山藩藩校有終館学頭。藩主板倉勝静(かつきよ)のもとで財政改革をおこない,勝静が老中につくと顧問となる。維新後は岡山県閑谷(しずたに)学校の再興につくした。明治10年6月26日死去。73歳。名は球。字(あざな)は琳卿。通称は安五郎。著作に「古本大学講義」など。
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山田方谷 (やまだほうこく)
生年月日:1805年2月21日
江戸時代末期;明治時代の儒学者
1877年没
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世界大百科事典(旧版)内の山田方谷の言及
【松山藩】より
…その後,領主は水谷(みずのや)氏5万石,安藤氏6万5000石,石川氏6万石を経て,1744年(延享1)以降は板倉氏が,備中国上房,川上,賀陽,下道,哲多,阿賀,浅口7郡の内で5万石を襲封して明治維新に及んだ。藩治で見るべきものには,水谷氏治下での新田開発,松山(高梁)川改修,城下町形成,維新時の藩主板倉勝静(かつきよ)による儒者[山田方谷](ほうこく)を登用しての財政改革,産業奨励,文教刷新などがある。勝静は松平定信の孫で,1862‐64年(文久2‐元治1),65‐68年(慶応1‐明治1)老中を務めて朝敵とされた。…
※「山田方谷」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」