デジタル大辞泉 「川田甕江」の意味・読み・例文・類語 かわだ‐おうこう〔かはだヲウカウ〕【川田甕江】 [1830~1896]幕末・明治前期の漢学者。備中の人。名は剛たけし。大橋訥庵おおはしとつあんらに師事。文章家として知られた。著「文海指針」など。 出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例 Sponserd by
精選版 日本国語大辞典 「川田甕江」の意味・読み・例文・類語 かわだ‐おうこう【川田甕江】 幕末・明治初期の漢学者。文学博士。岡山の人。名は剛。大橋訥庵(とつあん)に学ぶ。維新後、東京大学教授、「古事類苑」編纂総裁などを歴任。学士院会員。著「文海指針」「日本外史弁誤」など。天保元~明治二九年(一八三〇‐九六) 出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例 Sponserd by
朝日日本歴史人物事典 「川田甕江」の解説 川田甕江 没年:明治29.2.2(1896) 生年:天保1.6.13(1830.8.1) 幕末明治期の儒者,文人。名は剛,字は毅卿,幼名竹次郎,通称剛介,号は甕江。備中(岡山県)阿賀崎の人。早く江戸に出て古賀茶渓,大橋訥庵,藤森弘庵らに師事。大溝藩(滋賀県)の賓師を経て,山田方谷の推薦で幕閣でもあった備前松山藩主板倉勝静に仕えた。その後動乱の中でよく藩主父子を補佐しながら佐幕から尊皇への藩論転換の処理を行う。明治3(1870)年,致仕して政府に仕え大学少博士,権大外史を経て,8年に太政官修史局(のち修史館)が発足してその一等修撰になった。10年,一等編修。14年,明治天皇の北海道巡幸に随行し『随鑾紀程』(1884)を著す。しかし同年12月,重野成斎(安繹)一派との確執により宮内省四等出仕に転任。その後は東京大学教授,諸陵頭を歴任した。23年,貴族院議員になるが2年で辞職。錦鶏間祗候,東宮侍読となる。晩年『古事類苑』を監修した。文学博士。性温雅にして洒脱。文章特に碑文に秀でていた。漢学者杉山三郊は娘婿,歌人川田順はその庶子である。<著作>『文海指針』『楠氏考』『得間瑣録』<参考文献>亀山松濤『川田甕江先生小伝』 (宮崎修多) 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報 Sponserd by
新訂 政治家人名事典 明治~昭和 「川田甕江」の解説 川田 甕江カワダ オウコウ 肩書宮中顧問官 本名川田 剛 別名字=毅卿 幼名=竹次郎 剛介 生年月日天保1年6月13日(1830年) 出生地備中国浅口郡阿賀崎村(岡山県) 経歴重野成斎、三島中洲と共に明治の三大文章家といわれる。漢文学者として活躍し、文学博士、学士院会員等、官職として東宮侍読などもつとめ、「近世名家文評」「文海指針」などの著書がある。 没年月日明治29年2月1日 家族息子=川田 順(歌人) 出典 日外アソシエーツ「新訂 政治家人名事典 明治~昭和」(2003年刊)新訂 政治家人名事典 明治~昭和について 情報 Sponserd by
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「川田甕江」の解説 川田甕江 かわだ-おうこう 1830-1896 幕末-明治時代の漢学者。文政13年6月13日生まれ。川田順の父。大橋訥庵(とつあん),藤森弘庵らにまなぶ。備中(びっちゅう)(岡山県)松山藩につかえ,維新後は修史局や宮内省につとめ,東京大学教授をかねた。貴族院議員。「古事類苑」編修総裁,宮中顧問官などを歴任。明治29年2月2日死去。67歳。備中出身。名は剛。字(あざな)は毅卿。著作に「随鑾(ずいらん)紀程」「近世名家文評」など。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例 Sponserd by
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「川田甕江」の意味・わかりやすい解説 川田甕江かわだおうこう [生]天保1(1830)[没]1896幕末~明治の漢学者。名は剛。大橋訥庵,藤森弘庵に学ぶ。松山藩に仕え,明治維新後東京大学教授。学士院会員。文学博士。『古事類苑』編纂総裁。著書『日本外史弁誤』。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報 Sponserd by