日本歴史地名大系 「三方庄」の解説
三方庄
みかたのしよう
平安時代末期から戦国時代の庄園。
八条院領は源平争乱の口火を切った治承四年(一一八〇)の以仁王の挙兵の財源に充てられたという。年未詳二月一二日の宗成書状(国立歴史民俗博物館所蔵高山寺文書)は、三方庄の兵粮については仰せに従い下知すると述べている。同書状は一連の八条院庁関係文書の一つで、承安三年(一一七三)から文治元年(一一八五)前後のものと思われ、宗成は弘誓院領三方庄の知行者とみられる。嘉禄二年(一二二六)三月二七日、鎌倉幕府は源仲清の「三方庄東庄」地頭職を停止した(「将軍藤原頼経袖判下文」随心院文書)。同年四月一九日の関東御教書案(同文書)に三方庄は入道権大納言家領とあり、同家の願いにより前記の地頭職が停止された。領家の入道権大納言は九条道家の弟藤原教家で、弘誓院大納言と号した。なお三方庄は後鳥羽上皇の管領する八条院領であったため、承久の乱で京方にくみして鎌倉幕府と戦った武士がいたと思われ、乱後に源仲清が新補地頭となったのであろう。
三方庄
みかたのしよう
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報