三方庄(読み)みかたのしよう

日本歴史地名大系 「三方庄」の解説

三方庄
みかたのしよう

平安時代末期から戦国時代の庄園。三方西みかたのさい(現波賀町)に対しての呼称で、三方西郷(現同上)に対し三方東みかたひがし庄などとも称される。「和名抄」にみえる古代の宍粟郡三方郷の郷名を継承したとみられる。久寿二年(一一五五)一二月二九日の太政官符案(随心院文書)に「三方庄」がみえ、当庄を含む弘誓ぐぜい(現京都市南区)領庄園八ヵ所に対する官使・検非違使・院宮諸司・国使の入部および課役賦課が停止されている。同案文は承久(一二一九―二二)の内裏造替の国役を課せられた際に保元(一一五六―五九)の例により免除されんことを願って作成したものらしい。承久四年四月五日の太政官牒(同文書)では、これが認められている。弘誓院は鳥羽上皇の院司で美福門院藤原得子の父藤原長実が建立した浄土宗寺院で、のちに美福門院の御願寺歓喜光かんきこう(現京都市左京区)末寺となった。そのため弘誓院領は鳥羽上皇と美福門院の娘八条院子に伝領され、八条院領庄園群の一部となる。

八条院領は源平争乱の口火を切った治承四年(一一八〇)以仁王の挙兵の財源に充てられたという。年未詳二月一二日の宗成書状(国立歴史民俗博物館所蔵高山寺文書)は、三方庄の兵粮については仰せに従い下知すると述べている。同書状は一連の八条院庁関係文書の一つで、承安三年(一一七三)から文治元年(一一八五)前後のものと思われ、宗成は弘誓院領三方庄の知行者とみられる。嘉禄二年(一二二六)三月二七日、鎌倉幕府は源仲清の「三方庄東庄」地頭職を停止した(「将軍藤原頼経袖判下文」随心院文書)。同年四月一九日の関東御教書案(同文書)に三方庄は入道権大納言家領とあり、同家の願いにより前記の地頭職が停止された。領家の入道権大納言は九条道家の弟藤原教家で、弘誓院大納言と号した。なお三方庄は後鳥羽上皇の管領する八条院領であったため、承久の乱で京方にくみして鎌倉幕府と戦った武士がいたと思われ、乱後に源仲清が新補地頭となったのであろう。


三方庄
みかたのしよう

古代の気多けた郡三方郷(和名抄)を継承し、鎌倉時代前期には三方郷とよばれて国衙領。三方郷には京都仁和寺領新井にい庄の庄田七町余が混在していたが、貞応元年(一二二二)の頃地頭渋谷三郎がこれを押領したとして、同じく新井庄田が混在していた気多郷地頭・日置ひおき郷地頭とともに訴えられ、同年七月七日付の関東下知状(仁和寺文書)によって、押領が停止されている。地頭渋谷氏は相模国を本貫とする御家人渋谷氏の一族であろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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